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天龍寺平和観音・愛の泉・天龍寺見所(修学旅行・観光)
天龍寺平和観音・愛の泉
●天龍寺平和観音・愛の泉は多宝殿の横にあります。
●天龍寺平和観音は中国から伝来したと言われています。天龍寺開山である夢窓疎石・夢窓国師はその母が観音菩薩の霊夢によって授かったとされ、夢窓疎石・夢窓国師は観音菩薩を信仰し、念持仏としました。夢窓疎石・夢窓国師は南北朝時代に和平に尽力したことから平和観音と称するようになったとも言われています。天龍寺平和観音前には観音様を守る三匹のカエルがあり、カエルの前のお皿にお金を投げ、見事入ると幸せになるとも言われています。なお
夢窓疎石は鎌倉時代の1275年(建治元年)に伊勢国(三重県)に生まれました。幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移り、1283年(弘安6年)に甲斐・平塩寺(へいえんじ)の空阿(くうあ)に師事して天台宗・真言宗などを学びました。1292年(正応5年)に奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院の慈観(じかん)のもとで受戒し、その後京都・建仁寺(けんにんじ)の無隠円範(むいんえんぱん)に禅宗を学びました。その後鎌倉に赴き、奥州などを遊歴し、鎌倉時代後期の1325年 (正中2年) に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の勅によって京都・南禅寺(なんぜんじ)の住持になりました。南北朝時代(室町時代)に室町時代初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の帰依を受け、京都・苔寺(こけでら)の中興開山になり、京都・天龍寺(てんりゅうじ)の開山になりました。夢窓疎石は1351年(観応2年・正平6年)10月20日に亡くなりました。なお夢窓疎石は歴代天皇から国師号を生前に夢窓国師(むそうこくし)・正覚国師(しょうがくこくし)・心宗国師(しんしゅうこくし)、死後に普済国師(ふさいこくし)・玄猷国師(げんにゅうこくし)・仏統国師(ぶっとうこくし)・大円国師(だいえんこくし)を賜与され、七朝帝師(しちちょうていし)とも称されました。
観音菩薩は菩薩の一尊で、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)・救世菩薩(くせぼさつ)・観音さまなどとも言われています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身(さんじゅうさんおうげしん)が説かれています。三十三応化身(三十三応現身像(さんじゅうさんおうげんしんぞう))は仏身・辟支仏身・声聞身・梵王身・帝釈身・自在天身・大自在天身・天大将軍身・毘沙門身・小王身・長者身・居士身・宰官身・婆羅門身・比丘身・比丘尼身・優婆塞身・優婆夷身・長者婦女身・居士婦女身・宰官婦女身・婆羅門婦女身・童男身・童女身・天身・龍身・夜叉身・乾闥婆身・阿修羅身・迦楼羅身・緊那羅身・摩ご羅伽身・執金剛身です。
●天龍寺愛の泉は地下約80メートルから涌き出ている霊泉です。天龍寺愛の泉はこれを喫する(きっする)者は愛と幸を受けられるとされ、愛の泉と称されています。
【天龍寺 備考】
*参考・・・天龍寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●天龍寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
天龍寺歴史(足利尊氏・夢窓疎石)
●天龍寺の見どころ(庭園・法堂など)を紹介しています。
天龍寺見どころ(庭園・法堂など)