天龍寺の歴史は足利尊氏が亀山殿を寺に改めたのが起源
天龍寺の時代別年表と重要人物
天龍寺は1339年(延元4年・暦応2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏が第96代・後醍醐天皇を弔う為に夢窓疎石を開山に離宮・亀山殿を寺に改めたのが起源です。足利尊氏と後醍醐天皇は建武の新政で対立していました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【天龍寺が建立されている場所】
- 天龍寺が建立されている場所には平安時代初期の承和年間(834年~847年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の后・檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子(たちばなのかちこ))が創建した日本最初の禅寺・壇林寺(だんりんじ)が建立されていました。壇林寺は荒廃し、その後第60代・醍醐天皇(だんごてんのう)の皇子・前中書王兼明親王(さきのちゅうしょおうかねあきらしんのう)の亀山山荘、後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))の仙洞御所(せんとうごしょ)、亀山上皇(第90代・亀山天皇(かめやまてんのう))の離宮・亀山殿(かめやまどの)が造営されました。亀山の名称は天龍寺近くにある小倉山(おぐらやま)が亀の甲に似ていることに由来しています。
- 1335年(建武2年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいがてんのう)が離宮・亀山殿内に臨川寺(りんせんじ)を創建したが、その後南北朝時代の1339年(延元4年・暦応2年)に後醍醐天皇が吉野・金輪王寺(きんりんのうじ)で崩御しました。
【天龍寺の起源・始まり】
- 天龍寺は1339年(延元4年・暦応2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇を弔う為、夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)を開山に離宮・亀山殿を改めたのが起源です。天龍寺は1345年(興国6年・康永4年)に落慶しました。足利尊氏は後醍醐天皇による建武の新政(けんむのしんせい)で対立し、後醍醐天皇から足利尊氏追討の命が出されていたが、夢窓国師・夢窓疎石の強い勧めにより、後醍醐天皇を弔う為に天龍寺を創建しました。なお天龍寺建立の費用調達には貿易船・天龍寺船(造天龍寺宋船)が仕立てられました。天龍寺船は1341年(興国2年・暦応4年)に足利直義から許可され、1342年(興国3年・暦応5年)に派遣され、1343年(興国4年・康永2年)に日本に寄港しました。
- 天龍寺は当初、元号から暦応資聖禅寺(れきおうししょうぜんじ)と称していたが、足利尊氏が弟で、副将軍と称された足利直義(あしかがただよし)が大堰川(おおいがわ・桂川(かつらがわ))から天に昇る金龍の夢を見たことから天龍資聖禅寺(てんりゅうししょうぜんじ)に改められました。変更には最初の年号寺である比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ))などの反発があったとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 1341年(興国2年・暦応4年)に足利直義により、天龍寺が五山十刹(ござんじっせつ)の第2位に列せられました。
- 1358年(正平13年・延文3年)に伽藍が焼失しました。なお南北朝時代には1367年(正平22年・貞治6年)・1373年(文中2年・応安6年)・1380年(天授6年・康暦2年)にも火災に見舞われました。
- 1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)により、天龍寺が京都五山の第2位に列せられました。
- 1386年(元中3年・至徳3年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)により、天龍寺が京都五山の第1位に列せられました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1394年(明徳5年)に南朝第4代で、第99代・後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が足利義満に天龍寺で初めて面会しました。足利義満は1392年(元中9年・明徳3年)に南北朝を合一させました。
- 1401年(応永8年)に足利義満が天龍寺を京都五山の第2位にしました。足利義満は南北朝時代の1382年(弘和2年・永徳2年)に相国寺(しょうこくじ)を創建し、相国寺と交代して第2位になりました。
- 1410年(応永17年)に天龍寺が京都五山の第1位に戻されました。最盛期に寺域が約950万平方メートル、子院150か寺に及んだとも言われています。
- 1447年(文安4年)に伽藍が焼失しました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、1468年(応仁2年)に天龍寺が臨川寺とともに焼失しました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】
- 1523年(大永3年)に法堂のみが再建されました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から天龍寺に寺領1,720石が寄進されました。
- 1596年(文禄5年)に慶長伏見地震によって伽藍が倒壊しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1604年(慶長9年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)から天龍寺の寺領7,020石が安堵されました。
- 1815年(文化12年)に法堂・方丈などの伽藍が焼失しました。
- 1864年(元治元年)に禁門の変(きんもんのへん・蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))が起こり、天龍寺に長州藩藩士が立て篭もったことから幕府軍などから攻撃され、伽藍の多くが焼失しました。なお現在の伽藍の多くは明治時代以降に再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 明治維新後に神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、天龍寺が衰微しました。
- 1876年(明治9年)に臨済宗天龍寺派大本山になりました。
- 1877年(明治10年)に天龍寺は上地令により、嵐山53町歩など大部分の寺領を失いました。
- 1899年(明治32年)に法堂・大方丈・庫裏が再建されました。
- 1924年(大正13年)に小方丈(書院)が再建されました。
- 1994年(平成6年)に天龍寺はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【天龍寺の開基とされる室町幕府初代将軍・足利尊氏】
足利尊氏は1305年(嘉元3年)に足利宗家7代当主・足利貞氏と側室・上杉清子の次男として生まれました。1333年(元弘3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇が鳥取・伯耆船上山で挙兵すると鎌倉幕府軍を率いて上洛したが、丹波国・篠村八幡宮で鎌倉幕府への反乱を宣言し、六波羅探題を滅ぼしました。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が建武の新政を開始したが、その後対立が激しくなり、一時九州に都落ちしたが、上洛して京都を制圧し、北朝第2代・光明天皇から征夷大将軍に補任され、室町幕府を開きました。ただ後醍醐天皇は奈良・吉野に脱出して南北朝時代が始まりました。1336年(延元元年・建武3年)に室町幕府の施政方針を示した建武式目を発布し、弟・足利直義と二頭政治を布いたが、観応の擾乱で足利直義が急死しました。1339年(延元4年・暦応2年)に後醍醐天皇が崩御するとその菩提を弔う為に天龍寺を創建しました。なお足利尊氏は1358年(正平13年・延文3年)亡くなりました。
【天龍寺 備考】
*参考・・・天龍寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ