東福寺六波羅門・東福寺見どころ

東福寺六波羅門

●東福寺六波羅門は1953年(昭和28年)3月31日に国の重要文化財に指定されました。
●東福寺六波羅門は鎌倉時代前期(1185年~1274年)に六波羅探題(ろくはらたんだい)に建てられ、その後東福寺に移されたと言われています。東福寺六波羅門は山内で最古の建物のひとつと言われています。東福寺六波羅門には鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が六波羅探題を攻撃した跡が遺されていると言われています。
六波羅探題は後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)が鎌倉幕府執権・北条義時(ほうじょうよしとき)に対して討伐の兵を挙げて敗れた1221年(承久3年)の承久の乱(じょうきゅうのらん)後に六波羅探題北方(北殿)・北条泰時(ほうじょうやすとき)と六波羅探題南方(南殿)・北条時房(ほうじょうときふさ)を京都に常駐されたのが始まりです。ちなみに承久の乱以前には鎌倉幕府が京都守護を置いていたが、承久の乱で滅ぼされました。六波羅探題は鎌倉幕府の出張機関として、朝廷・公家の行動を監視し、洛中の警固と西国御家人の統制を行いました。六波羅探題は執権(しっけん)・連署(れんしょ)に次ぐ重職とされ、北条氏一族から有力者が2名または1名が交代で任命されました。北方は南方よりも上席とされ、南方にはしばしば欠員がありました。なお六波羅探題は1333年(元弘3年・正慶2年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇方の足利尊氏・千種忠顕(ちぐさただあき)・赤松則村(あかまつのりむら)らに攻撃され、六波羅探題北方・北条仲時(ほうじょうなかとき)は後伏見上皇(第93代・後伏見天皇)、花園上皇(第95代・花園天皇)、北朝初代・光厳天皇を奉じて逃走したが、近江で敗死し、六波羅探題は滅亡しました。
足利尊氏は鎌倉時代の1305年(嘉元3年)8月26日に鎌倉幕府の御家人で、足利宗家7代当主・足利貞氏(あしかがさだうじ)と側室・上杉清子(うえすぎきよこ)の次男として生まれました。鎌倉幕府第14代執権で、北条氏得宗家当主・北条高時(ほうじょうたかとき)から偏諱(へんき)を受け、高氏(たかうじ)と名乗りました。1333年(元弘3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇が鳥取・伯耆船上山(ほうきせんじょうさん)で挙兵すると鎌倉幕府軍を率いて上洛したが、丹波国(亀岡市)・篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)で鎌倉幕府への反乱を宣言し、六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、後醍醐天皇から偏諱を受け、尊治(たかはる)と改めました。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が建武の新政(けんむのしんせい)を開始したが、その後後醍醐天皇との対立が激しくなり、一時九州に都落ちしたものの上洛して京都を制圧し、北朝第2代・光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され、室町幕府を開きました。ただ後醍醐天皇は奈良・吉野に脱出し南朝を創始し、南北朝時代が始まりました。1336年(延元元年・建武3年)に室町幕府の施政方針を示した建武式目(けんむしきもく)を発布し、弟・足利直義(あしかがただよし)と二頭政治を布いたが、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で足利直義が急死しました。1339年(延元4年・暦応2年)に後醍醐天皇が崩御するとその菩提(ぼだい)を弔う為に天龍寺(てんりゅうじ)を創建しました。なお足利尊氏は1358年(正平13年・延文3年)6月15日に亡くなりました。
●東福寺六波羅門は棟門(むなもん)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
東福寺見どころ

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