東福寺鐘楼・東福寺見どころ

東福寺鐘楼

●東福寺鐘楼は1902年(明治35年)4月17日に国の重要文化財に指定されました。
●東福寺鐘楼は室町時代中期(1393年~1466年)に建立されました。東福寺鐘楼はかつて三聖寺(さんしょうじ)の鐘楼として建立されたが、1873年(明治6年)に三聖寺が廃寺になって寺号を万寿寺(まんじゅじ)に改めたことから東福寺の塔頭・万寿寺にあります。
一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は金堂(こんどう)・塔・講堂・経蔵・僧坊・食堂(じきどう)とともに七堂伽藍(しちどうがらん)と言われています。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳(くどく)になるとされました。鐘楼は古くは金堂の背後に経蔵と対し、一般に太鼓を置いた鼓楼(ころう)に対して伽藍の両翼を建立されました。鐘楼は古代中国の様式を模し、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の法隆寺(ほうりゅうじ)西院伽藍の鐘楼(平安時代)が唯一残された古式の鐘楼遺構と言われています。その後法隆寺東院の鐘楼(鎌倉時代)のように下層が裾(すそ)広がりの袴腰造(はかまごしつくり)や東大寺(とうだいじ)の鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放した吹放(ふきはなし)などの鐘楼が現れました。鐘楼は現在、高い土台の上に四本柱を立て、四方を吹抜きにしたものが一般的です。なお鐘楼は鐘撞堂・釣鐘堂などとも言われています。
万寿寺は平安時代後期の1096年(永長元年)に白河上皇(第72代・白河天皇)が六条内裏内に建立した六条御堂(ろくじょうみどう)が起源と言われています。白河上皇は第1皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)の追善の為に仏堂の六条御堂に改めました。その後度々焼失し、鎌倉時代に十地覚空(じゅうちかくくう)とその弟子・慈一宝覚が東福寺開山である聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)に帰依し、六条御堂を万寿禅寺(万寿寺)に改めました。1273年(文永10年)に焼失し、1330年(元徳2年)に第91代・後宇多天皇の第2皇女・崇明門院(すうめいもんいん)から土地を賜って移りました。ただその後も焼失したり、衰退したりして天正年間(1573年~1593年)に東福寺山内の三聖寺に移ったが、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命によって再び移りました。1873年(明治6年)に三聖寺が廃寺にされ、寺号を万寿寺に改めました。
●東福寺鐘楼は桁行三間・梁間二間で、入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。東福寺鐘楼は袴腰付です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
東福寺見どころ

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