八坂神社本殿・八坂神社見どころ(修学旅行)

八坂神社本殿

●八坂神社本殿は1911年(明治44年)4月17日に国の重要文化財に指定されました。
●八坂神社本殿は江戸時代前期の1646年(正保3年)に焼失し、1654年(承応3年)に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)が再建しました。
徳川家綱は1641年(寛永18年)9月7日に江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)と側室・お楽の方(宝樹院(ほうじゅいん))の間に長男として江戸城本丸で生まれました。幼名は竹千代(たけちよ)で、乳母は矢島局(やじまのつぼね)・三沢局(みさわのつぼね)でした。徳川家綱は生まれた時から徳川家光によって後継ぎに決められました。乳母・春日局(かすがのつぼね)に育てられた徳川家光は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と母・江(ごう・崇源院(すうげんいん))に寵愛された弟・徳川忠長(とくがわただなが)と世継争いがあった為と言われています。徳川家綱は1645年(正保2年)に元服し、1651年(慶安4年)4月20日に徳川家光が亡くなると8月18日に10才で江戸城で将軍宣下を受け、江戸幕府第4代将軍に就任し、内大臣にも任じられました。徳川家綱は幼少将軍であったことから叔父の保科正之(ほしなまさゆき)や徳川家光の遺老とも言われる酒井忠勝(さかいただかつ)・松平信綱(まつだいらのぶつな)らに補佐され、治世29年間で幕府諸制度を整備しました。なお徳川家綱は質素倹約を重んじ、武芸学問を奨励し、武断政治から文治政治に政策を切り替えました。
一般的に本殿は祭神(神霊・神体)を祀る建物です。本殿は神殿(しんでん)とも言われ、古くは正殿(せいでん・しょうでん)・宝殿(ほうでん)とも言われていました。なお本殿が内陣と外陣に分かれている場合、内陣に祭神が祀られ、外陣は献饌(けんせん)・奉幣(ほうべい・ほうへい)の場として使われます。
●八坂神社本殿は御所・紫宸殿(ししんでん)を模し、本殿と拝殿がひとつになった独特の祇園造(ぎおんづくり)・八坂造です。なお八坂神社本殿は檜皮葺(ひわだぶき)の入母屋造(いりもやづくり)です。
祇園造は入母屋造りの母屋の前方に向拝 (こうはい) を設け、更に側面および背面の三方に庇 (ひさし) 部分を設けた建築様式です。一般的に本殿と拝殿は別々に建築されるが、祇園造では大屋根で本殿と拝殿を覆います。
紫宸殿(ししんでん)は大内裏(だいだいり)の正殿です。紫宸殿では天皇の即位などの公的な最重要儀式が行われました。なお平安時代中期までは大極殿(だいごくでん)が大内裏の正殿だったが、平安時代中期以降に焼亡と再建を繰り返して衰亡しました。
一般的に一般的に拝殿は神社で祭祀・拝礼を行なう為の社殿です。拝殿は本殿前に建立されるが、拝殿がない神社(春日大社・伊勢神宮など)や拝殿が2つある神社(伏見稲荷大社・明治神宮など)などがあります。拝殿が2つある場合、手前の拝殿が外拝殿(げはいでん)、奥の拝殿が内拝殿(ないはいでん)と言われます。また拝殿の中央が土間で、通り抜けられる場合には割拝殿(わりはいでん)と言われます。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
八坂神社見どころ

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