平等院藤・平等院見どころ(修学旅行)

平等院藤

●平等院藤は鳳凰堂(ほうおうどう)近くの約15メートル×約17メートルの藤棚に植えられています。藤には樹齢約300年の藤が4株植えられています。藤は例年4月下旬頃から5月上旬頃に見ごろを迎えます。約1万本の花が咲き、花房が長さが1メートル以上に及ぶものもあります。なお藤は1981年(昭和56年)に宇治市の名木百選に選ばれています。
藤(ふじ)はマメ科フジ属のつる性落葉木本です。藤にはつるが右巻きと左巻きがあり、右巻きは標準和名がフジ・ノダフジ、左巻きは標準和名がヤマフジ・ノフジとも言われています。(日本の植物学の父とも言われる植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう)命名)ノダフジの名称は藤の名所だった旧・大阪府西成郡野田村に由来しています。野田村は「吉野の桜、野田の藤」と並び称されました。藤はマメ科植物同様に夜間に葉をすぼめるそうです。藤の名称はうすい紫色の花の色に由来しています。なお日本産の藤は固有種で、本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布しています。
鳳凰堂は平安時代後期の1053年(天喜元年)に平等院開基で、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立しました。鳳凰堂は当方に面して建立され、阿字池(あじいけ)を隔てた西方に極楽浄土(ごくらくじょうど)があることを示しています。なお平安時代後期になるとお釈迦様の入滅から2,000年目以降に仏法が廃れるという末法思想(まっぽうしそう)が信じられるようになり、平等院が創建された1052年(永承7年)は末法元年に当たり、貴族らは極楽往生を願って西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀る仏堂を盛んに建立しました。
●藤の花は藤原氏の代表紋(だいひょうもん)です。
藤原氏は中臣氏(なかとみし)と同じく天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖とし、中臣氏は大和政権の神事を司っていました。中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原鎌足)は蘇我氏(そがし・蘇我宗家)を滅ぼし、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治に変えた大化の改新(たいかのかいしん)の功により、669年(天智8年)に第38代・天智天皇から姓「藤原」を賜りました。中臣鎌足(藤原鎌足)と中大兄皇子(第38代・天智天皇)らは蘇我稲目(そがのいなめ)・蘇我馬子(そがのうまこ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の4代に渡って政権を掌握した蘇我氏に憤り、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害され、その後男女の法の制定・鍾匱の制の開始・仏法興隆の詔の発布などの改革が進めました。その後684年(天武13年)に「朝臣(あそん)」の姓 (かばね) を賜り、698年(文武2年)に中臣鎌足の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)の子孫のみが「藤原」の使用が認められました。藤原不比等の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が藤原南家(なんけ)祖、次男・藤原房前(ふじわらのふささき)が藤原北家(ほっけ)祖、三男・藤原宇合(ふじわらのうまかい)が藤原式家(しきけ)祖、四男・藤原麻呂(ふじわらのまろ)が藤原京家(きょうけ)祖になり、藤原四家が成立しました。北家は平安時代に摂政・関白・太政大臣の地位に就いて藤原氏の主流になり、藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)の頃に全盛を迎えたが、鎌倉時代に五摂家(近衛家(このえけ)・鷹司家(たかつかさけ)・九条家(くじょうけ)・二条家(にじょうけ)・一条家(いちじょうけ))が分立し、その後も支流を含む藤原氏一族全体が朝廷で重要な地位を維持し続けました。
平等院見どころ

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