平等院浄土院養林庵書院・平等院見どころ(修学旅行)

平等院浄土院養林庵書院

●平等院浄土院養林庵書院は1927年(昭和2年)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
●平等院浄土院養林庵書院は安土桃山時代から江戸時代初期の1573年(天正元年)~1614年(慶長19年)に建立されました。養林庵書院は伏見城の遺構とも言われています。養林庵書院には絵師・狩野山雪が描いたとも言われる雪景山水図・籬(まがき)に梅図・花卉(かき)図があります。なお養林庵書院庭園は細川忠興(ほそかわただおき・細川三斎(ほそかわさんさい))が作庭したと言われています。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次に関白職を譲った豊臣秀吉が平安時代から観月の名所であった伏見指月に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政・前田玄以・増田長盛などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こり、1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
狩野山雪は安土桃山時代の1590年(天正18年)に千賀道元の子として肥前国(長崎県)に生まれました。1605年(慶長10年)に父・千賀道元と死別し、叔父の僧の世話で大坂に住んでいた狩野永徳の門人・狩野山楽の弟子になりました。その後師・狩野山楽に画才と人柄を見込まれ、狩野山楽の娘・竹の婿になり、跡を継いで狩野氏を名乗りました。義父・狩野山楽とともに1629年(寛永6年)頃に当麻寺縁起絵巻(熨斗家蔵)の制作に加わり、1631年(寛永8年)に建立された妙心寺の塔頭・天球院の障壁画を制作しました。1647年(正保4年)に関白・九条幸家の命により、東福寺所蔵の明兆筆の三十三身観音像の内、欠けていた2幅を補作し、その功績によって法橋に叙せられました。1651年(慶安2年)に義弟・伊織の金銭トラブルに巻き込まれて揚屋に収容されたが、九条幸家ら九条家の尽力によって出獄することができました。しかし同年5月1日に心労が祟って亡くなりました。
●平等院浄土院養林庵書院は桁行約9.1メートル・梁間9.9メートルで、正面入母屋造(いりもやづくり)・背面切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。養林庵書院は側面に庇があります。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
平等院見どころ

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