知恩院大鐘楼・知恩院見どころ

知恩院大鐘楼

●知恩院大鐘楼は1997年(平成9年)5月29日に国の重要文化財に指定されました。
●知恩院大鐘楼は江戸時代中期の1678年(延宝6年)に知恩院第38世・玄誉万無上人が建立しました。知恩院大鐘楼には1636年(寛永13年)に鋳造されました高さ約3.3メートル・口径約2.8メートル・重さ約70トンの梵鐘が吊られています。大鐘楼で梵鐘が撞かれるのは法然上人の御忌大会・大晦日の除夜の鐘だけです。
玄誉万無上人は江戸時代初期の1607年(慶長12年)に伊勢国津に生まれました。後白河法皇(第77代・後白河天皇)の近習として北面に仕えた平康頼(たいらのやすより)の後裔で、滝川氏の出身と言われています。伊勢天然寺(てんねんじ)の真誉(しんよ)のもとで出家し、その後関東に下って八王子・滝山大善寺(だいぜんじ)に学び、小金井・幡随院(ばんずいいん)の随巌(ずいがん)、群馬太田・大光院(だいこういん)の無絃(むげん)、芝・増上寺(ぞうじょうじ)の還無(げんむ)に師事しました。武蔵・浄国寺(じょうこくじ)、下総飯沼・弘経寺(ぐぎょうじ)、上野・大光院(だいこういん)、鎌倉・光明寺(こうみょうじ)などを経て、1674年(延宝2年)に知恩院第38世になりました。玄誉万無上人は大鐘楼の建立など境内の整備に尽力しました。また弟子・忍澂に法然院を再興させ、善気山万無寺法然院と名付けました。なお玄誉万無上人は1681年(延宝9年)6月25日に亡くなりました。
一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は金堂(こんどう)・塔・講堂・経蔵・僧坊・食堂(じきどう)とともに七堂伽藍(しちどうがらん)と言われています。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳(くどく)になるとされました。鐘楼は古くは金堂の背後に経蔵と対し、一般に太鼓を置いた鼓楼(ころう)に対して伽藍の両翼を建立されました。鐘楼は古代中国の様式を模し、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の法隆寺(ほうりゅうじ)西院伽藍の鐘楼(平安時代)が唯一残された古式の鐘楼遺構と言われています。その後法隆寺東院の鐘楼(鎌倉時代)のように下層が裾(すそ)広がりの袴腰造(はかまごしつくり)や東大寺(とうだいじ)の鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放した吹放(ふきはなし)などの鐘楼が現れました。鐘楼は現在、高い土台の上に四本柱を立て、四方を吹抜きにしたものが一般的です。なお鐘楼は鐘撞堂・釣鐘堂などとも言われています。
●知恩院大鐘楼は桁行三間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
知恩院見どころ

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