知恩院御廟・知恩院見どころ

知恩院御廟

●知恩院御廟は京都府有形文化財です。
●知恩院御廟は鎌倉時代の1212年(建暦2年)に浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が大谷の禅房(知恩院勢至堂付近)で亡くなり、その後門弟が廟堂が建て、遺骨を奉安したのが起源です。その後江戸時代前期の1613年(慶長18)に常陸国土浦藩主・松平信一(まつだいらのぶかず)の寄進で改築されました。江戸時代中期の1710年(宝永7年)に拝殿が建立されました。なお1227年(嘉禄3年)に天台宗の延暦寺衆徒が浄土宗と専修念仏を弾圧する嘉禄の法難(かろくのほうなん)が起こり、法然上人の遺骸を鴨川に流すように訴えました。法然上人の遺骸は信空(しんくう)・覚阿(かくあ)が中心となって掘り出し、二尊院・来迎院(西光寺)を経て幸阿(こうあ)の念仏三昧院(光明寺)に移され、火葬して荼毘に付し、遺骨は念仏三昧院・知恩院など各地に分骨されました。
松平信一は戦国時代(室町時代後期)の1539年(天文8年)に藤井松平家始祖・松平利長(まつだいらとしなが)の長男として生まれました。早くから江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1558年(永禄元年)の品野城(しなのじょう)夜襲戦・1563年(永禄6年)の三河一向一揆鎮圧・1568年(永禄11年)の観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)・1575年(天正3年)の遠江国諏訪原の戦い(長篠の戦い)などに参加しました。1590年(天正18年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、徳川家康が関東に移封されると下総国(茨城県)布川に5千石が与えられました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に常陸国土浦藩3万千石の初代藩主になりました。1604年(慶長9年)に桜井松平家から松平信吉(まつだいらのぶよし)を養子に迎えて家督を譲り、1624年(寛永元年)に松平信吉が移封されたの丹波国篠山城で亡くなりました。
法然上人は平安時代後期の1133年(長承2年)4月7日に美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使(おうりょうし)・漆間時国(うるまときくに)と秦氏君(はたうじのきみ)清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に9歳で父・漆間時国が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚(かんがく)のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に15歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に登って源光(げんこう)に師事して天台(てんだい)を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空(えいくう)のもとで修業し、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導(ぜんどう)の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」や天台宗の僧である恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)の「往生要集(おうじょうようしゅう)」により、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水(よしみず)に草庵を結んで老若貴賤(ろうにやくきせん)に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺(こうふくじ)・比叡山延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)1月25日に東山大谷(京都市東山区)で亡くなりました。
知恩院見どころ

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