醍醐寺五大堂・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺五大堂

●醍醐寺五大堂は1940年(昭和15年)に再建されました。醍醐寺五大堂はかつて平安時代中期の913年(延喜13年)に第60代・醍醐天皇の御願堂として建立されたが、その後度々災害に見舞われ、江戸時代初期の1606年(慶長11年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が再建したが、1932年(昭和7年)にも焼失しました。醍醐寺五大堂には五大明王像・不動明王像が安置されていたが、現在は霊宝館に安置されています。なお醍醐寺五大堂前には中央に醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)、左に醍醐寺第1世座主・観賢僧正(かんげんそうじょう)、右に修験道の開祖とされている役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづぬ)の像が建立されています。
第60代・醍醐天皇は平安時代前期の885年(元慶9年)2月6日に第59代・宇多天皇と女御・藤原胤子(ふじわらのいんし)の第1皇子として生まれました。第59代・宇多天皇は臣籍に降下して源定省(みなもとのさだみ)と称していたことから源維城(みなもとのこれざね)として生まれました。887年(仁和3年)に父・源定省が皇籍復帰して第59代・宇多天皇に即位すると皇族に列しました。893年(寛平5年)に立太子し、897年(寛平9年)に13歳で元服して第60代・醍醐天皇に即位しました。父である第59代・宇多天皇から帝王の心得を記した「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」を与えられ、それに従って左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)と右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を重用して政務を任せました。しかし901年(昌泰4年)に藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変が起こると藤原時平を重用しました。第60代・醍醐天皇の治世は形式上摂関を置かずに天皇親政で、後世に「延喜の治」と称されました。ちなみに村上天皇の治世とともに「延喜・天暦の治」と称されました。第60代・醍醐天皇は治世中に国史「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」・勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)」・三代格式「延喜格式(えんぎかくしき)」を編纂させました。930年(延長8年)7月に菅原道真の祟りとも言われる清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)が起こると体調を崩し、10月16日に皇太子・寛明親王(第61代天・朱雀天皇)に譲位し、7日後の10月23日に出家すとともに崩御しました。
●醍醐寺五大堂に安置されていた五大明王像は五大力さんとも言われ、例年2月23日に五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)が行われています。
五大力尊仁王会は醍醐寺開山である理源大師・聖宝の遺訓により、平安時代の907年(延喜7年)から行われています。五大力尊仁王会は真言密教秘奥の大法義で、七難即滅(しちなんそくめつ)・七福即生(しちふくそくしょう)の一大祈祷を行う最上無比の権儀(ごんぎ)とされ、醍醐寺最大の年中行事とも言われています。五大力尊仁王会では不動明王(ふどうみょうおう)・降三世明王(ごうさんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の五大明王(五忿怒)の力を授かり、その化身とされる金剛吼菩薩(こんごうくぼさつ)・竜王吼菩薩(りゅうおうくぼさつ)・無畏十力吼菩薩(むいじゅうりきくぼさつ)・雷電吼菩薩(らいでんくぼさつ)・無量力吼菩薩(むりょうりきくぼさつ)の五大力菩薩により、国の平和や人々の幸福を祈願します。
醍醐寺見どころ

ページ上部へ戻る