醍醐寺如意輪堂・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺如意輪堂

●醍醐寺如意輪堂は1954年(昭和29年)9月17日に国の重要文化財に指定されました。
●醍醐寺如意輪堂は江戸時代前期の1606年(慶長11年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が再建しました。醍醐寺如意輪堂は「醍醐寺縁起」によるとかつて平安時代前期の876年(貞観18年)に醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が准胝観音(じゅんていかんのん)を祀る准胝堂(じゅんていどう)とともに最初に建立したとも言われています。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●醍醐寺如意輪堂には本尊・如意輪観音(にょいりんかんのん)、脇の間に毘沙門天(びしゃもんてん)・吉祥天(きっしょうてん)が安置されています。醍醐寺如意輪堂には堂下の岩に如意輪観世音菩薩が飛来して立ったという伝承が残されています。
如意輪観音は観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つで、六観音の一尊です。六観音は千手観音(せんじゅかんのん)・聖観音(しょうかんのん)・十一面観音(じゅういちめんかんのん)・馬頭観音(ばとうかんのん)・准胝観音(じゅんでいかんのん)または不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)です。如意輪観音は霊験を表す如意宝珠(にょいほうじゅ)と法輪(ほうりん)の力により、一切の願望を満たし、生きとし生けるものを救済します。ちなみに「如意」は如意宝珠、「輪」は法輪の略です。如意輪観音像は多くが6本の手である六臂(ろっぴ)を備え、右膝立ちに両足裏を合わせて座り、頭を右に傾けて思惟(しい)の相を示しています。
観音菩薩は菩薩の一尊で、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)・救世菩薩(くせぼさつ)・観音さまなどとも言われています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身(さんじゅうさんおうげしん)が説かれています。
醍醐寺見どころ

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