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醍醐寺奥の院・醍醐寺見所(修学旅行・観光)
醍醐寺奥の院
●醍醐寺奥の院は上醍醐にある洞窟です。奥の院(洞窟)には不動明王(ふどうみょうおう)、修験道(しゅげんどう)の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)、真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)を祀っています。なお三宝院(醍醐寺)は真言宗系の修験道・当山派(とうざんは)の本寺とされ、奥の院近くには行場・東の覗き(断崖絶壁)があります。
不動明王は密教の根本尊である大日如来(だいにちにょらい)の化身とされ、五大明王(降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう))の中心となる明王です。大日如来が衆生を教化する際、通常の姿では教化できないので、忿怒相(ふんぬそう)をもって現れたとされています。不動明王は背に火炎を背負い、右手に悪を断ち切る剣、左手に救済の索を持ち、全ての悪と煩悩を抑え、全ての生あるものを救うと言われています。不動明王はヒンドゥー教の最高神・シヴァ神が起源とされ、平安時代初期の804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡った真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が806年(大同元年)に密教とともに唐から不動明王の図像を持ち帰ったと言われています。
役行者は飛鳥時代の634年(舒明天皇6年)に父・大角(おおづぬ)と母・白専女(しらとうめ)との間に賀茂一族(高賀茂朝臣)として奈良御所市茅原(大和国葛城上郡茅原)で生まれたとも言われました。誕生地には本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)の吉祥草寺(きっしょうそうじ)が創建されています。その後17歳で奈良・元興寺(がんごうじ)で孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪法(じゅほう)を学び、葛城山(かつらぎさん)・熊野(くまの)・大峰(おおみね)で山岳修行を続け、吉野・金峯山(きんぷさん)で金剛蔵王大権現(こんごうざおうごんげん)を感得し、日本古来の山岳信仰や山修行と外来の密教(仏教)などを融合させた修験道の基礎を築きました。しかし弟子・韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師・役行者の能力を妬み、鬼神(きじん)を使役とした妖術(ようじゅつ)を使って人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したことから699年(文武3年)に伊豆島に流罪になったが、701年(大宝元年)1月に大赦となって故郷・御所市茅原に戻り、6月7日に大阪箕面・天上ヶ岳(てんじょうがたけ)で68歳で亡くなったと言われています。なお役行者は修験道の祖とされ、前鬼と後鬼を弟子にしたと言われています。
弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公と母・阿刀大足の妹の間に生まれました。ただ正確な誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師の一人である不空三蔵(不空金剛)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
当山派は醍醐寺の塔頭・三宝院 (さんぼういん) を本寺とし、金峯山(きんぷせん)を本拠とする真言系の修験道です。当山派は平安時代前期に真言宗の開祖である弘法大師・空海の孫弟子で、醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が金峯山を山岳修行の拠点としたのが起源です。
【醍醐寺 備考】
*参考・・・京都世界遺産・醍醐寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●醍醐寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
醍醐寺歴史(聖宝・醍醐天皇・豊臣秀吉)
●醍醐寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
醍醐寺見どころ(金堂・五重塔など)