醍醐寺横尾大明神・醍醐寺見どころ(修学旅行・観光)

醍醐寺横尾大明神

●醍醐寺横尾大明神は上醍醐に祀られています。醍醐寺縁起によると平安時代前期のある日、真言宗の開祖である弘法大師・空海の孫弟子で、醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が空海の弟・真雅(しんが)が建立した深草の貞観寺(じょうがんじ)から東の方を見ていると五色の雲がたなびいているのが見えました。その雲に誘われて笠取山に登り、山頂に着くとまるで生まれ故郷に帰ったような思いがしたそうです。そして谷間を見ると白髪の老人が湧き出る水を飲んで、「甘露(かんろ)。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。聖宝は老人からこの地に寺院を建立したいと声を掛けられ、老人は「ここは諸仏・諸菩薩の雲集する地で、私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」と言って姿を消したと言われています。湧き水は醍醐水と言われ、現在も枯れることなく湧き続けています。
理源大師・聖宝は平安時代前期の832年(天長9年)3月21日に讃岐国(香川県)で生まれました。847年(承和14年)16歳で奈良・東大寺(とうだいじ)に入り、真言宗の宗祖である弘法大師・空海の実弟で、東大寺別当・真雅(しんが)に師事して出家しました。その後奈良・元興寺(がんごうじ)の円宗(えんしゅう)・願暁(がんぎょう)から三論宗(さんろんしゅう)、東大寺の平仁(ひょうにん)から法相宗(ほっそうしゅう)、東大寺の玄永(げんえい)に華厳宗(けごんしゅう)を学びました。872年(貞観13年)に真雅から無量寿法(むりょうじゅほう)を受け、874年(貞観16年)に醍醐寺を創建しました。880年(元慶4年)に弘法大師・空海の甥で、金剛峯寺(こんごうぶじ)座主・真然(しんぜん)に学んで両部大法(りょうぶたいほう)を受け、884年(元慶8年)に東寺二長者・源仁(げんにん)に伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を授けられました。887年(仁和3年)に朝廷から正式に伝法灌頂職位を授けられ、895年(寛平7年)に東寺二長者になり、896年(寛平8年)に東寺別当を兼ね、906年(延喜6年)に東寺一長者になりました。907年(延喜7年)に醍醐寺が第60代・醍醐天皇の御願寺になりました。理源大師・聖宝は修験道(しゅげんどう)の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづぬ)の故事を慕って、日ごろ山に登り、川を渡って山野で修業し、修験道の基礎を築いたことから「修験道の醍醐寺」とも言われています。なお理源大師・聖宝は909年(延喜9年)7月25日に亡くなりました。
醍醐水は上醍醐の清滝宮傍らにある井水(閼伽井)です。醍醐水が湧く場所は聖宝が小堂宇を建立し場所で、醍醐寺発祥の地とされています。
●醍醐寺横尾大明神はは一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
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