延暦寺瑠璃堂・延暦寺見どころ(修学旅行)

延暦寺瑠璃堂

●延暦寺瑠璃堂は1912年(明治45年)2月8日に国の重要文化財に指定されました。
●延暦寺瑠璃堂は室町時代後期(1467年~1572年)に建立されたといわれています。延暦寺瑠璃堂は戦国時代(室町時代後期)の1571年(元亀2年)9月12日に織田信長(おだのぶなが)が行った比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)で焼失を免れ、比叡山延暦寺で唯一残った建物と言われています。
比叡山焼き討ちは1571年(元亀2年)9月30日(旧暦9月12日)に起こりました。前年の1570年(元亀元年)4月、浅井長政(あざいながまさ)は織田信長に反旗を翻して朝倉義景(あさくらよしかげ)と連合し、浅井氏・朝倉氏は6月の姉川の戦い(あねがわのたたかい)で一時敗退したが、9月に織田信長の弟・織田信治(おだのぶはる)が戦死し、浅井氏・朝倉氏の一部が比叡山延暦寺を拠点として織田信長に抵抗しました。また11月に本願寺(ほんがんじ)の顕如(けんにょ)による長島一向一揆(ながしまいっこういっき)で織田信長の弟・織田信興(おだのぶおき)が自害しました。織田信長は信長包囲網(浅井氏・朝倉氏・本願寺・三好三人衆・雑賀衆など)で包囲される中、比叡山延暦寺に攻撃を掛け、根本中堂(こんぽんちゅうどう)などの堂塔伽藍(がらん)を焼き払い、数千名の僧俗男女を皆殺しにしました。なお織田信長の一代記「信長公記(しんちょうこうき)・江戸時代初期成立」には「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、・・・」などと記されています。
織田信長は戦国時代(室町時代後期)の1534年(天文3年)6月23日(旧暦5月12日)に戦国大名で、織田弾正忠家の当主・織田信秀(おだのぶひで)と継室・土田御前(どたごぜん)の嫡男として生まれました。1551年(天文20年)に父・織田信秀が亡くなると家督を継ぎ、尾張守護代の織田大和守家・織田伊勢守家を滅ぼし、弟・織田信行(おだのぶゆき)を排除して尾張一国を統一しました。1560年(永禄3年)に桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)で駿河国の戦国大名・今川義元(いまがわよしもと)を敗死させ、1562年(永禄5年)に三河の領主・徳川家康(とくがわいえやす)と同盟を結び、1567年(永禄10年)に美濃国の戦国大名・斎藤龍興(さいとうたつおき)を滅ぼすと尾張国・美濃国の2カ国を領する戦国大名になりました。1568年(永禄11年)に室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、朝倉氏(あさくらし)・浅井氏(あざいし)を滅ぼし、1573年(天正元年)に足利義昭を河内に追放して室町幕府を滅ぼしました。1575年(天正3年)に長篠の戦い(ながしののたたかい)で甲斐国の戦国大名・武田勝頼(たけだかつより)を破り、1576年(天正4年)に安土城を築城しました。その後天下統一の途中である1582年(天正10年)6月21日(旧暦6月2日)の本能寺の変により、49才で自刃しました。
延暦寺見どころ

ページ上部へ戻る