建仁寺勅使門・建仁寺見どころ

建仁寺勅使門

●建仁寺勅使門は1902年(明治35年)7月31日に国の重要文化財に指定されました。
●建仁寺勅使門は鎌倉時代後期(1275年~1332年)に建立されました。建仁寺勅使門はかつて平清盛(たいらのきよもり)の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)の六波羅邸(ろくはらてい)の門を移したとも、平清盛の異母弟・平教盛(たいらののりもり)の館の門を移したとも言われています。
一般的に勅使門は天皇の使者・勅使が寺院に参向した際に出入りに使われる門です。ちなみに使者は上皇の場合に院使(いんし)、皇后の場合に皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の場合に中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の場合に皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の場合に女院使(にょいんし)と言われます。
平重盛は平安時代後期の1138年(保延4年)に平清盛と右近将監(うこんのじょう)・高階基章(たかしなのもとあき)の娘の長男として生まれました。1150年(久安6年)に鳥羽法皇(第74代・鳥羽天皇)の蔵人(くらんど)になり、1151年(久安7年・仁平元年)に従五位下になりました。1156年(保元元年)の保元の乱で第77代・後白河天皇方の父・平清盛に従って参戦し、第77代・後白河天皇方が勝利したことから1157年(保元2年)に19歳で従五位上に昇叙しました。1158年(保元3年)に父・平清盛が知行国を安芸国から遠江国に移すと遠江守になりました。1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝(みなもとのよしとも)のいる大内裏(だいだいり)を攻めて戦功を挙げ、伊予守に任じられました。1163年(長寛元年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が三十三間堂を造営し、その賞によって国政を担う公卿(くぎょう)に列しました。1165年(長寛3年)に参議(さんぎ)になり、1167年(仁安2年)に権大納言(ごんだいなごん)になり、東国・西国の山賊・海賊追討を命じられました。1177年(安元3年)に内大臣になり、平家打倒の陰謀・鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)が起こると父・平清盛が後白河法皇(第77代・後白河天皇)を幽閉するのを止めました。ちなみに妻・藤原経子(ふじわらのけいし)は鹿ヶ谷の陰謀の主謀者・藤原成親(ふじわらのなりちか)の妹でした。その後病気がちになり、1179年(治承3年)に職を辞して出家し、静蓮(じょうれん))と号しました。なお平重盛は1179年(治承3年) 9月2日に42歳で亡くなりました。ちなみに平清盛は1181年(治承5年)に亡くなりました。
平教盛は平安時代後期の1128年(大治3年)に平忠盛(たいらのただもり)と藤原家隆(ふじわらのいえたか)の娘の四男として生まれました。1156年(保元元年)の保元の乱で第77代・後白河天皇方の兄・平清盛に従って参戦し、その功によって院の昇殿を許されました。1159年(平治元年)の平治の乱にも参戦し、平清盛の勝利に貢献しました。その後後白河上皇(第77代・後白河天皇)に接近し、院近臣(いんのきんしん)として活動して正四位下・常陸介に叙任されました。しかし1161年(応保元年)に第78代・二条天皇を廃し、憲仁親王(第80代・高倉天皇)を擁立しよとした容疑で解官されました。1162年(応保2年)に能登守に復職し、1168年(仁安3年)に第80代・高倉天皇が即位すると正三位参議に進み、1181年(養和元年)に権中納言(ごんのちゅうなごん)になり、1183年(寿永2年)に中納言になりました。1181年(治承5年)に平清盛が亡くなると平清盛の三男・平宗盛(たいらのむねもり)を補佐して京都防衛の参謀役を果たしました。1183年(寿永2年)に平家が都落ちし、平家一門の武将が相次いで戦死すると実戦に参加しました。1185年(寿永4年)の壇ノ浦の戦いで兄・平経盛(たいらのつねもり)とともに鎧(よろい)の上に碇(いかり)をつなげ、兄弟手を取り合って海に沈みました。
建仁寺見どころ

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