高台寺開山堂・高台寺見どころ(修学旅行)

高台寺開山堂

●高台寺開山堂は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●高台寺開山堂は江戸時代前期の1605年(慶長10年)に建立されました。開山堂はかつて北政所の持仏堂だったと言われています。
北政所(ねね・おね)は戦国時代(室町時代後期)の1548年(天文17年)または1549年(天文18年)に杉原定利(すぎはらさだとし)と朝日殿(あさひどの)の次女として尾張国朝日村(愛知県清須市)に生まれました。その後叔母・七曲殿(ななまがりどの)の嫁ぎ先である浅野長勝(あさのながかつ)の養女になりました。1561年(永禄4年)に14歳で関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし・木下藤吉郎(きのしたとうきちろう))と恋愛結婚しました。北政所と豊臣秀吉の間に子供はなかったが、いずれも賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)に数えられた加藤清正(かとうきよまさ)・福島正則(ふくしままさのり)など豊臣秀吉・北政所の親類縁者を養子や家臣として養育しました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が関白になると従三位に叙せられ、北政所の称号を許されました。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が造営した聚楽第(じゅらくてい)に第107代・後陽成天皇が行幸し、無事に還御すると従一位に昇叙しました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの)とともに豊臣秀頼(とよとみひでより)を後見し、1603年(慶長8年)に豊臣秀頼と徳川家康(とくがわいえやす)の孫で、徳川秀忠(とくがわひでただ)の長女・千姫(せんひめ)と結婚すると落飾し、朝廷から院号を賜って高台院快陽心尼(高台院湖月心尼)と称しました。1606年(慶長11年)に高台寺を創建し、豊臣秀吉の菩提(ぼだい)を弔いました。なお北政所は1624年(寛永元年)10月17日に亡くなりました。
一般的に開山堂は寺院の開山の像を安置する建物です。開山は寺院に最初に住した僧侶のことを指します。開山堂は祖師堂(そしどう)・御影堂(みえいどう・ごえいどう)・影堂(えいどう)などとも言われています。
一般的に持仏堂は日常的に礼拝する念持仏や位牌を安置する堂です。念持仏は個人が日常身に付けたり、身辺に置いたりして拝む仏像です。念持仏は小型の場合が多く、単に持仏とも、内仏(うちぼとけ)とも言われています。なお法隆寺(ほうりゅうじ)の橘夫人(第45代天皇・聖武天皇の光明皇后の母)念持仏が日本最古と言われています。
●高台寺開山堂には中央に中興開山・三江紹益(さんこうじょうえき)像、右に北政所の兄・木下家定(きのしたいえさだ)と妻・雲照院(うんしょういん)像、左に普請に尽力した堀直政(ほりなおまさ)像を安置しています。
三江紹益は戦国時代の1572年(元亀3年)に京都で生まれました。江戸時代初期の1606年(慶長11年)に臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派の大本山・建仁寺(けんにんじ)に入山し、その後建仁寺295世になりました。1624年(寛永元年)に高台寺に招聘され、高台寺を曹洞宗(そうとうしゅう)から臨済宗に改めました。三江紹益は北政所の兄・木下家定(きのしたいえさだ)と関係が深く、木下家定の七男・木下秀規(きのしたひでのり)が三江紹益のもとで出家したとも言われています。また三江紹益は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に信任され、経書を講じたこともありました。1624年(寛永元年)に高台寺の塔頭・圓徳院(えんとくいん・円徳院)の開山になりました。なお三江紹益は1650年(慶安3年)に亡くなりました。
高台寺見どころ

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