広隆寺講堂・広隆寺見どころ

広隆寺講堂

●広隆寺講堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財に指定されました。
●広隆寺講堂は平安時代後期の1165年(永万元年)に再建されました。広隆寺講堂は京都市内に残る平安建築のひとつで、京洛で最古の建物とも言われています。戦国時代(室町時代後期)の永禄年間(1558年~1570年)以降に度々改修されました。堂内に平安建築の様式が見られるが、外観などに古い部分はほとんど残っていないとも言われています。なお広隆寺講堂は瓦銘や近世の絵図により、金堂として建立されたとも言われています。
一般的に講堂は僧侶が経典の講義や説教などをする堂塔です。講堂は通常、中国・唐時代の伽藍配置に倣って、金堂(本堂)の背後に建立されています。ちなみに講堂は禅宗寺院では法堂(はっとう)とも言われています。講堂は奈良時代に建立が始まり、鎌倉時代以後にはほとんど建立されなくなったが、禅宗寺院で仏殿の背後に法堂として建立されました。講堂は奈良時代に建立された唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂や平安時代に再建された法隆寺(ほうりゅうじ)の大講堂がよく知られています。講堂で講義する際には本尊を安置し、講師が本尊に向かい、礼盤(らいばん)に座って講義を行いました。なお講堂は多くの僧侶が参集することから金堂よりも大きく建立されるが、装飾性は少い堂塔です。
一般的に金堂は本堂で、本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
●広隆寺講堂には内陣に本尊・阿弥陀如来坐像(国宝)、向かって右に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、左に虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)が安置されています。
阿弥陀如来坐像は「資財帳」・「実録帳」によると承和年間(834年~848年)に第53代・淳和天皇に寵愛され女御・永原原姫(ながはらのもとひめ)が造仏したとも言われています。永原原姫は広隆寺に多額の財を寄進しました。阿弥陀如来坐像は巨大なヒノキの一材から頭・体などの根幹部を彫出した像高261.5センチです。阿弥陀如来坐像は両手を胸前に上げ、説法印を結んでいます。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏(阿弥陀佛)・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)とも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩( ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土である極楽浄土(ごくらくじょうど)を設立して現在もそこで説法しているとされています。阿弥陀如来は飛鳥時代(7世紀前半)に日本に伝わり、平安時代中期以降に隆盛して阿弥陀如来像が造仏され、鎌倉時代に念仏によって極楽浄土に往生できるという阿弥陀信仰が盛んになり、法然上人(ほうねんしょうにん)を宗祖とする浄土宗(じょうどしゅう)・親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする浄土真宗(じょうどしんしゅう)・一遍上人(いっぺんしょうにん)を宗祖とするを時宗が成立しました。
広隆寺見どころ

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