仁和寺本坊表門・仁和寺見どころ

仁和寺本坊表門

●仁和寺本坊表門は1973年(昭和48年)6月2日に国の重要文化財に指定されました。
●仁和寺本坊表門は安土桃山時代の1596年(文禄5年)から江戸時代前期の1615年(慶長20年)に建立されたと言われています。仁和寺本坊表門はかつて京都御所・女御御里御殿(にょうごおさとごでん)の西御台所門(みだいどころもん)として建てられ、その後仁和寺に移されたと言われています。女御御里御殿は1612年(慶長17年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が孫娘・徳川和子(とくがわまさこ・東福門院(とうふくもんいん))の入内(第108代・後水尾天皇の皇后)を申し入れ、1614年(慶長19年)に入内宣旨が出されると1618年(元和4年)から造営が開始され、その後西御台所門が仁和寺に移されたと言われています。
京都御所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)でした。平安京遷都時の内裏は京都御所から西約1.7キロの千本通(平安京の朱雀大路)沿いにあったが、失火や政変による火災によって度々焼失し、鎌倉時代の1227年(安貞元年)の火災後に再建されることはありませんでした。その後南北朝時代に第96代・後醍醐天皇が京都を逃れ、光厳天皇が北朝初代天皇になると土御門東洞院殿が北朝の内裏に定着し、1392年(明徳3年)の南北朝の合一後に正式な御所になりました。室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が敷地を拡大し、安土桃山時代に織田信長(おだのぶなが)や関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が整備しました。しかしその後度々焼失し、その都度再建されたり、建て替えられたりし、江戸時代後期の1855年(安政2年)に現在の内裏が再建されました。
女御御里御殿は女御の御里(実家)に代わり、女御の出産の際に使用される御殿です。女御御里御殿は女御の入内に合わせて造営されます。女御御里御殿には寝所・寝所兼産所などがありました。
●仁和寺本坊表門は一間薬医門(やくいもん)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
薬医門は2本の本柱(鏡柱)の後方に2本の控え柱を立て、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)を架け、切妻屋根をのせた門です。薬医門は元々公家や武家の正門などに用いられたが、扉をなくして医家に用いられたことから名称の由来になりました。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
仁和寺見どころ

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