西本願寺南能舞台・西本願寺見どころ

西本願寺南能舞台

●西本願寺南能舞台は1910年(明治43年)8月29日に国の重要文化財に指定されました。
●西本願寺南能舞台は江戸時代前期に建立されました。西本願寺南能舞台では西本願寺第8代・蓮如(れんにょ)が教化の手だてとして始めた親鸞聖人の降誕会での祝賀能が毎年5月21日が行われています。西本願寺南能舞台は対面所が見所になります。
西本願寺第8代・蓮如は室町時代の1415年(応永22年)4月13日に西本願寺第7代・存如(ぞんにょ)の長子として生まれました。1431年(永享3年)17歳で中納言・広橋兼郷(ひろはしかねさと)の猶子となって青蓮院(しょうれんいん)で得度しました。1447年(文安4年)に関東に下って親鸞聖人の遺跡を巡拝しました。1457年(長禄元年)に父・存如が亡くなると本願寺第8代になりました。1465年(寛正6年)に延暦寺(えんりゃくじ)から仏敵と認定され、北陸・東国を巡錫(じゅんしゃく)し、越前に吉崎御坊・山科に山科本願寺・大坂に石山本願寺(大坂御坊)を建立し、本願寺教団を再興しました。1489年(延徳元年)に退隠し、五男・実如(じつにょ)が西本願寺第9代になり、1499年(明応8年)5月14日に85歳で山科本願寺で亡くなりました。
親鸞聖人は平安時代後期の1173年(承安3年)5月21日に皇太后宮大進(たいごうぐうしょく)・日野有範(ひのありのり)と吉光女(きっこうにょ)の長男として生まれました。1181年(治承5年)9歳で叔父・日野範綱(ひののりつな)に伴われて天台三門跡・青蓮院(しょうれんいん)に入り、その後天台座主・慈円(じえん・慈鎮(じちん))のもとで得度し、範宴(はんねん)と称しました。出家後に比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で20年間修行を続け、天台宗(たんだいしゅう)を学びました。1201年(建仁元年)に聖徳太子(しょうとくたいし)創建とされる六角堂(ろっかくどう)に百日参籠し、夢告に従って浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の門弟になり、浄土教を学びました。法然上人から綽空(しゃっくう)の名を与えられ、その後法然上人の許しを得て恵信尼(えしんに)と結婚したとも言われています。1207年(建永2年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)の怒りに触れる承元の法難(じょうげんのほうなん)に連座し、専修念仏が停止され、法然上人と親鸞聖人を含む7名の弟子が流罪になりました。越後に配流され、1211年(建暦元年)11月に勅赦なったが、1212年(建暦2年)1月に法然上人が亡くなると京都に戻らず、信濃(しなの)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)などの約20年間に渡って東国布教を努め、常陸稲田で4年の歳月を掛けて浄土真宗の教義を体系化した「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著しました。60歳で帰洛の途につき、62歳頃に帰京し、京都で転々と住居を移して教化と著述に努めました。なお親鸞聖人は1263年(弘長3年)に90歳で亡くなりました。
●西本願寺南能舞台は桁行一間・梁間一間で、切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
西本願寺見どころ

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