相国寺宗旦稲荷神社・相国寺見どころ

相国寺宗旦稲荷神社

●相国寺宗旦稲荷神社には宗旦狐が祀られ、茶道(芸事)の上達・商売繁盛にご利益があるとも言われています。
宗旦狐は江戸時代初期頃に相国寺境内に住んでいた一匹の白狐です。宗旦狐はしばしば茶人・千宗旦に姿を変え、雲水にまじって坐禅をくんだり、和尚と碁を打ったりしていました。また近所の茶人のお宅に赴いてお茶を飲み、菓子を食い荒らしたりもしていました。ある時、相国寺の塔頭・慈照院(じしょういん)の茶室・い神室(いしんしつ)で茶室開きが行われた際に見事なお点前を披露しました。遅れてきた千宗旦も感心したと言われています。後日、千宗旦の弟子が問い詰めると二度と悪さをしないと詫びて逃げ去りました。その後宗旦狐は雲水に化けて相国寺で勉強し、相国寺の財政難にも托鉢で尽力しました。また門前の豆腐屋が倒産寸前になった際、集めてきた蓮の葉を売って大豆を買うよう勧めました。豆腐屋はお礼に狐の大好物である鼠の天婦羅を贈ったが、食べると神通力を失うと遠慮したが、我慢できずに食べて狐の姿に戻り、それを見た犬に激しく吠えられ、咄嗟に藪に逃げ込んだが、慌てて井戸に落ちて死んだとも言われています。また猟師に鉄砲で撃たれて死んだとも言われています。その後雲水が宗旦狐の死を悼んで祠を建てたとも言われています。
千宗旦は安土桃山時代の1578年(天正6年)に千利休(せんのりきゅう)の後妻・宗恩(そうおん・おりき)の連れ子・千少庵(せんのしょうあん)と千利休の娘・お亀の間に生まれました。10歳の頃に祖父・千利休の希望で大徳寺(だいとくじ)に喝食(かつじき)として預けられ、その後大徳寺第111世・春屋宗園(しゅんおくそうえ)のもとで修業を積んで得度しました。1591年(天正19年)に祖父・千利休が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の逆鱗に触れて切腹し、父・千少庵が陸奥国会津の蒲生氏郷(がもううじさと)のもとで蟄居を命じられました。1594年(文禄3年)に父・千少庵が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)のとりなしで京に戻り、千家(京千家)が再興され、千宗旦は父・千少庵の希望で還俗しました。豊臣秀吉は千利休から召し上げた茶道具を千宗旦に返したと言われています。江戸時代初期の1600年(慶長5年)頃に父・千少庵が隠居して家督を継ぎました。その後祖父・千利休とは異なり、政治との関わりを避けて生涯仕官せず、乞食修行のように清貧であったことから「乞食宗旦」とも言われました。長男・千宗拙(せんそうせつ)を加賀藩前田家、次男・千宗守(せんそうしゅ)を高松松平家、三男・千宗左(せんそうさ)を紀州徳川家、四男・千宗室(せんそうしつ)を加賀藩前田家に仕えさせ、勘当された宗拙を除く、次男・千宗守が武者小路千家、三男・千宗左が表千家、四男・千宗室が裏千家を興しました。なお千宗旦は1658年(万治元年)12月19日に亡くなりました。
慈照院(じしょういん)は室町時代の1405年(応永12年)頃に相国寺第13世・在中中淹(ざいちゅうちゅうえん)が創建し、大徳院(だいとくいん)と称したのが起源とも言われています。その後1490年(延徳2年)に銀閣寺(ぎんかくじ・慈照寺(じしょうじ))の銀閣を造営した室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の塔所影堂になり、足利義政の法号「慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶大禅定門」から慈照院に改められ、菩提所になりました。
相国寺見どころ

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