東寺五重小塔・東寺見どころ(修学旅行)

東寺五重小塔

●東寺五重小塔は1955年(昭和30年)6月22日に国の重要文化財に指定されました。
●東寺五重小塔は三間五重塔婆(さんげんごじゅうとうば)の本瓦形板葺(ほんがわらがたいたぶき)です。鎌倉時代前期の1240年(延応2年)頃に造られ、第77代・後白河天皇の第6皇女・宣陽門院(せんようもんいん・覲子内親王(きんしないしんのう))が東寺に寄進したと言われています。なお東寺五重小塔は大師堂(たいしどう・御影堂)内陣に安置されていたが、1955年(昭和30年)の修理の際に発見されました。
覲子内親王は平安時代末期の1181年(養和元年)11月13日に第77代・後白河天皇と高階 栄子(たかしなのえいし)の皇女として生まれました。1189年(文治5年)に9歳で内親王宣下(せんげ)を受けるとともに准三后(じゅさんごう)とされ、1191年(建久2年)に11歳で院号(いんごう)宣下を受けました。1192年(建久3年)父・後白河上皇から長講堂(ちょうこうどう)と長講堂領などを譲渡され、宮廷内外で勢威を振るいました。鎌倉時代初期の1195年(建久6年)に上洛した鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)夫妻から拝謁を求められました。1196年(建久7年)に親幕府派の九条兼実(くじょうかねざね)を失脚させたが、その後九条道家(くじょうみちいえ)との政争に敗れました。1205年(元久2年)に出家して性円智と称しました。宣陽門院は深く真言密教(しんごんみっきょう)に帰依し、その御願として大師堂で毎日朝昼夕の三時の勤行が行われるようになり、毎月21日に弘法大師御影供(みえく)が営まれるようになりました。また宣陽門院は東寺に所領も寄進しました。なお覲子内親王は1252年(建長4年)7月15日に72歳で亡くなりました。
大師堂は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の住房(じゅうぼう)が起源です。弘法大師・空海は住房で講堂の立体曼荼羅(りったいまんだら)を構想し、造営工事の指揮を執りました。大師堂は後堂(うしろどう)・前堂(まえどう)・中門(ちゅうもん)から構成され、南北朝時代の1379年(康暦元年)の火災によって後堂が焼失し、1380年(天授6年・康暦2年)に後堂が再建され、1390年(元中7年)に前堂・中門が増築されました。なお大師堂は後堂に弘法大師・空海の念持仏(ねんじぶつ)とされる不動明王(ふどうみょうおう)坐像(国宝)、前堂に弘法大師坐像(国宝)を安置しています。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ正確な誕生日は明確ではありません。真言宗では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。空海は讃岐から15歳で京都に上京し、804年(延暦23年)に遣唐使(けんとうし)として唐に渡り、真言密教(しんごんみっきょう)を日本に伝えて真言宗の開祖になったり、日本最初の私立学校・綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立したりしました。その後空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
東寺見どころ

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