東寺太元堂・東寺見どころ(修学旅行)

東寺太元堂

●東寺太元堂は北大門(重要文化財)を出た右側に建立されています。太元堂は鎮護国家(ちんごこっか)を司るという大元帥明王(だいげんすいみょうおう)と四天王(してんのう)を祀っています。大元帥明王は真言宗の宗祖である弘法大師・空海の弟子・小栗栖常暁(おぐるすじょうぎょう)が入唐して日本に伝えたとも言われています。
大元帥明王は明王の一尊です。大元帥明王は古代インド神話で弱者を襲って喰らう悪鬼神とされていたが、その後密教に取り入れられ、大日如来(だいにちにょらい)の功徳(くどく)によって善神に変えられ、その大いなる力が国家も守護する護法の力に転化され、明王の総帥とされました。大元帥明王は四天王・八部衆(はちぶしゅう)などの諸鬼神を従え、明王の最高尊である不動明王(ふどうみょうおう)に匹敵する霊験を有するとされています。大元帥明王は平安時代前期に小栗栖常暁が唐(中国)から日本に伝えました。なお大元帥明王は像容が極悪の忿怒相(ふんぬそう)の四面八臂(はっぴ)・六面八臂などで、手足に蛇がからみ、手に刀・戟(げき)などを持ち、火炎に包まれています。
小栗栖常暁は平安時代前期に山城国小栗栖(京都市伏見区)に生まれたとも言われています。初めに奈良・元興寺(がんごうじ)の豊安(ぶあん)のもとで出家し、三論宗(さんろんしゅう(中論・十二論・百論))の教学を学びました。その後真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)から灌頂(かんじょう)を受けて師事し、密教を学びました。838年(承和5年)に三論宗の留学僧として遣唐使(けんとうし)船に乗って唐(中国)に渡り、栖霊寺(せいれいじ)の文際(ぶんさん)から逆賊調伏(ぎゃくぞくちょうぶく)・鎮護国家の最秘法で、授法が国禁とされた太元帥法(だいげんすいほう)を学び、伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)になりました。その後華林寺(かりんじ)の元照(がんじょう)に師事して学びました。翌839年(承和6年)に帰国し、840年(承和7年)に山城国宇治の法琳寺(ほうりんじ)に大元帥明王像を安置し、修法院(しゅうほういん)とすることを許され、宮中の常寧殿(じょうねいでん)で大元帥法を初めて行いました。851年(仁寿元年)に大元帥法が弘法大師・空海が始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)に準じる国典(こくてん)とされ、翌852年(仁寿2年)1月8日から宮中で例年行われるようになり、1871年(明治4年)まで途中絶えることなく続けられました。856年(斉衡3年)の大旱魃や939年(天慶2年)の平将門(たいさのまさかど)の乱の際にも行われ、霊験あったとも言われています。864年(貞観6年)に権律師(ごんりっし)に任じられました。なお小栗栖常暁は867年(貞観8年)1月9日に亡くなりました。
●東寺太元堂は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
東寺見どころ

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