安井金比羅宮本殿・安井金比羅宮見どころ

安井金比羅宮本殿

●安井金比羅宮本殿に第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)・大物主神(おおものぬしのかみ)・源頼政(みなもとのよりまさ)を祀っています。
第75代・崇徳天皇は平安時代後期の1119年(元永2年)7月7日に第74代・鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし・待賢門院(たいけんもんいん))の第1皇子として生まれました。生後間もなく親王宣下を受け、1123年(保安4年)1月28日に皇太子となると同日に父・鳥羽天皇が譲位し、数え5歳(満3歳7か月)で第75代・崇徳天皇に即位しました。その後曾祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始しました。1129年(大治4年)に関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)の長女・藤原聖子(ふじわらのせいし・皇嘉門院(こうかもんいん))が入内し、翌1130年(大治5年)に藤原聖子が中宮になったが、子供は生まれず、1140年(保延6年)に女房・兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)が第1皇子・重仁親王(しげひとしんのう)を生むと藤原忠通・藤原聖子親子が不快感を抱いたとも言われています。父・鳥羽上皇は藤原得子(ふじわらのとくし・美福門院(びふくもんいん))を寵愛し、1141年(永治元年)に第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、父・鳥羽上皇と藤原得子の第9皇子・躰仁親王(なりひとしんのう)が第76代・近衛天皇に即位し、崇徳上皇は和歌に没頭しました。1155年(久寿2年)に第76代・近衛天皇が崩御し、子・重仁親王の即位に望みを掛けたが、叶いませんでした。1156年(保元元年)に父・鳥羽上皇が崩御すると藤原頼長(ふじわらのよりなが)らと組んで保元の乱(ほうげんのらん)を起こしたが、実弟である第77代・後白河天皇や義父・藤原忠通らに敗れて讚岐国(香川県)に配流されました。ちなみに天皇経験者が配流されたのは第47代・淳仁天皇以来、約400年振りの出来事でした。配流後に仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念し、写本を朝廷に差し出したが、第77代・後白河天皇が呪詛(じゅそ)が込められているかと疑い、送り返すと夜叉のような姿になり、後に天狗になったとも言われています。なお第75代・崇徳天皇は1164年(長寛2年)9月14日に崩御しました。
大物主神は日本神話に登場する神です。大物主神は日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」で大己貴神(おおあなむちのかみ)の和魂(にきみたま)、「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」で初代・神武天皇の岳父(義父)、第2代・綏靖天皇の外祖父とされています。大物主神は奈良県の三輪山(みわやま)に鎮座する神で、大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神です。
源頼政は摂津源氏の子孫で、白河法皇(第72代・白河天皇)、第77代・後白河天皇に仕え、1156年(保元元年)の保元の乱(ほうげんのらん)・1160年(平治元年)の平治の乱(へいじのらん)で武功を挙げました。平氏政権中、清和源氏として突出して従三位に叙されました。その後平氏政権打倒を目指した1180年(治承4年)の以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)で挙兵したが、宇治平等院(びょうどういん)で自刃したと言われています。
安井金比羅宮見どころ

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