建仁寺(六道珍皇寺・恵美須神社・禅居庵・・・)

建仁寺
建仁寺を観光するなら歴史的に関係が深い建仁寺の塔頭である六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)や鎮守である恵美須神社(ゑびすじんじゃ)も一緒に回るのもいいかもしれません。六道珍皇寺・恵美須神社は建仁寺から少し距離があるが、比較的簡単に拝観できます。なお建仁寺には通常非公開の塔頭である禅居庵・久昌院・西来院・興雲庵・正伝永源院・常光院・大統院・両足院・清住院・大中院・堆雲軒・霊源院・霊洞院もあります。
【建仁寺・六道珍皇寺・恵美須神社・塔頭 基本情報】
建仁寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
建仁寺の塔頭・六道珍皇寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
建仁寺の鎮守・恵美須神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
【建仁寺・六道珍皇寺・恵美須神社・塔頭 マップ・地図】
【建仁寺 歴史・簡単概要】
建仁寺(けんにんじ)は鎌倉時代前期の1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が寺域を寄進し、栄西禅師(えいさいぜんじ・ようさいぜんじ)が宋(中国)・百丈山(ひゃくじょうざん)を模して創建しました。建仁寺の名称は第83代・土御門天皇の勅許により、禅寺初の年号寺院・建仁寺になりました。当初は真言(しんごん)・止観(しかん)の二院を構え、天台(てんだい)・密教(みっきょう)・禅(ぜん)の三宗兼学の道場でした。その後寛元年間(1243年~1247年)・康元年間(1256年~1257年)の火災などによって荒廃し、1258年(正嘉元年)に東福寺(とうふくじ)を開山した聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)が再興しました。1262年(弘長2年)に宋からの渡来僧禅で、建長寺(けんちょうじ)開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺して禅の道場に改め、室町時代に京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の第3位に列せられました。その後天正年間(1573年~1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈・仏殿を移築して再建し、江戸時代に江戸幕府の保護によって伽藍が再建されました。
建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山です。
*参考・・・京都・建仁寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【六道珍皇寺 歴史・簡単概要】
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)・六道さんは起源が明確ではありません。六道珍皇寺は延暦年間(782年~805年)に真言宗の開祖である弘法大師・空海の師・慶俊(けんしゅん)が創建し、愛宕寺(おたぎでら)と言われたのが起源とも言われています。また空海が創建したとも、小野篁(おののたかむら)が創建したとも言われています。更に836年(承和3年)豪族・山代淡海(やましろのおおえ)らが国家鎮護の道場として創建したとも言われています。(諸説あり)鎌倉時代には東寺(教王護国寺)に属していたが、兵火によって荒廃したと言われています。その後1364年(正平19年・貞治3年)建仁寺・聞渓良聡(もんけいりょうそう)が再興し、真言宗から臨済宗に改められました。なお六道珍皇寺は明治時代に建仁寺に一時併合されたが、1910年(明治43年)には独立しました。なお六道珍皇寺がある場所は葬送地である鳥辺野の入口で、現世との境と考えられ、「六道の辻」と言われていました。
六道珍皇寺は臨済宗大本山建仁寺の塔頭です。
*参考・・・六道珍皇寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【恵美須神社 歴史・簡単概要】
恵美須神社(ゑびすじんじゃ・えびすじんじゃ)・京都ゑびす神社・京のえべっさんは1202年(建仁2年)に臨済宗の宗祖・明庵栄西禅師(みんなんえいさいぜんじ・みんなんようさいぜんじ)が建仁寺(けんにんじ)を創建した際、建仁寺の鎮守として造営されたと言われています。建仁寺が応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、その後再建された際に現在の場所に移ったと言われています。ゑびす信仰(十日戎・十日えびす)の象徴である福笹は恵美須神社独自の「御札」の形態が広く広まったものと言われています。なお恵美須神社はゑびす神である八代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)・大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っています。恵美須神社は妙円寺(松ヶ崎大黒天)・東寺・六波羅蜜寺・赤山禅院・行願寺(革堂)・萬福寺とともに都七福神めぐりに数えられています。
*参考・・・恵美須神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【建仁寺 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
建仁寺見どころ(風神雷神図・方丈など)