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カテゴリー:その他
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「都名所図会(みやこめいしょずえ)・1780年(安永9年)刊行」と祇園祭
「都名所図会」は1780年(安永9年)に刊行された京都のガイドブックで、大ヒットしたことから1787年(天明7年)に「拾遺都名所図会」も刊行されました。「都名所図会」は洛中・洛外だけでなく、山城国全域の名所なども記載されています。 -

「南都真言院伝法灌頂記(でんぽうかんじょうき)」と祇園祭
「南都真言院伝法灌頂記」には室町幕府の外交・内政などが記されています。また祇園祭なども記されています。「南都真言院伝法灌頂記」1404年(応永11年)6月8日に明使・趙居任ら明(中国)の使節が祇園祭を見物したことが記されています。 -

京羽二重(きようはぶたえ)」・「京羽二重織留(おりどめ)」と祇園祭
水雲堂孤松子は1685年(貞享2年)に「京羽二重」、1689年(元禄2年)に「京羽二重織留」を刊行しました。「京羽二重」・「京羽二重織留」は趣味と実益を兼ねた京都や近辺の案内書です。「京羽二重」には京都の略歴などが記されていました。 -

光悦寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
光悦寺の歴史を簡単にまとめています。光悦寺は1615年(元和元年)に本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、草庵を結んで法華題目堂を建立したのが起源です。本阿弥光悦は本阿弥家の先祖供養の為に位牌堂も建立したと言われています。 -

東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが)の「迎陽記」と葵祭
南北朝時代から室町時代初期の公卿・東坊城秀長の日記「迎陽記」には南北朝時代から室町時代前期の葵祭の様子が記されています。葵祭は平安時代中期に隆盛を極めたが、鎌倉時代・室町時代に徐々に衰えたと言われています。 -

法然院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
法然院の歴史を簡単にまとめています。法然院は鎌倉時代初期に浄土宗の宗祖・法然上人が弟子である安楽・住蓮とともに念仏三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた鹿ヶ谷草庵が起源と言われています。建永の法難よって草庵は長く荒廃しました。 -

源高明(みなもとのたかあきら)の「西宮記」と葵祭
平安時代に祭りと言えば、葵祭を指すほど隆盛し、その様子が貴族の日記などに記されています。第60代・醍醐天皇の第10皇子で、左大臣・源高明が記した「西宮記」には鴨祭・賀茂祭とも言われた葵祭のことが記されています。 -

第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の一条院と葵祭
葵祭の路頭の儀では内裏を出発した勅使らの奉幣使一行と賀茂斎院を出発した斎王一行が一条大宮で合流しました。一条大宮の南東には一条天皇の仮皇居である一条院があり、葵祭の供奉者は騎乗していた馬から下馬することがありました。 -

禧子内親王(きしないしんのう)・斎王退下と葵祭
葵祭に奉仕する斎王は天皇が崩御した際に退下し、新しい斎王が卜定されました。また斎王は父母の喪に服したり、自身が病気になったりすると退下しました。斎王は代替わりがあっても退下しないことも度々ありました。 -

鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)と葵祭
鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経は1238年(嘉禎4年)1月28日に京都に上洛する為に鎌倉を出発し、2月17日に京都に入洛して六波羅御所に入り、4月16日に葵祭を見物し、10月13日まで京都に滞在して鎌倉に戻りました。 -

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と葵祭
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は鎌倉時代前期の1195年(建久6年)2月14日に東大寺大仏殿落慶供養に参列の為に鎌倉を出発し、3月12日に落慶供養に参列し、4月17日の葵祭の摂関賀茂詣を見物することを禁止しました。 -

「源氏物語(げんじものがたり)」の斎王(斎院)と葵祭
紫式部作の「源氏物語」には平安時代中期に隆盛を極めた葵祭に奉仕した斎王が描かれています。「源氏物語」には桐壺帝の第3皇女である女三宮、光源氏の従妹である朝顔が登場し、それぞれの父親の死亡で斎王を退下します。













