御香宮神社椿見ごろ2025(3月下旬~4月上旬頃)
御香宮神社椿見ごろ(見頃)
御香宮神社椿見ごろ(イベント・・・)を紹介。御香宮神社には参道左手横にある参集館近くにおそらく椿(五色の散り椿)が植えられています。五色の散り椿は江戸時代前期に茶人・作庭家で、伏見奉行・小堀遠州が「これほど見事なツバキはおそらくないだろうとたたえた」ことから「おそらく椿」と言われるようになりました。(詳細下記参照)
【御香宮神社椿見ごろ(例年時期)】
御香宮神社の椿見ごろは例年3月下旬頃から4月上旬頃です。なお椿の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都椿名所・見ごろ
【御香宮神社椿見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市伏見区御香宮門前町174
最寄り駅・バス停・・・桃山駅(徒歩約5分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から御香宮神社はJR奈良線
*京阪電車本線の場合、最寄り駅は伏見桃山駅(徒歩約10分)
*近鉄京都線の場合、最寄り駅は桃山御陵前駅(徒歩約5分)
【御香宮神社椿見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
御香宮神社は京都で良く知られている椿の名所です。御香宮神社の椿見ごろは例年3月下旬頃から4月上旬頃です。
御香宮神社には参道左手横にある参集館近くにおそらく椿(五色の散り椿)が植えられています。五色の散り椿は江戸時代前期に茶人・作庭家で、伏見奉行・小堀遠州(こぼりえんしゅう・小堀政一(こぼりまさかず))が「これほど見事なツバキはおそらくないだろうとたたえた」ことから「おそらく椿」と言われるようになりました。おそらく椿は関白・豊臣秀吉が伏見城築城の際に各地から集めた茶花の一つとも言われています。おそらく椿は樹齢約400年・樹高約4メートルで、純白・ピンク・白の斑(ふ)入りと五色の花が咲き、秀吉好みとも言われています。
小堀遠州は1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次と近江国佐和山城主・磯野員昌の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。豊臣秀長、その婿養子・豊臣秀保が亡くなると秀吉の直参になりました。茶人で、大名・古田織部に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康に仕えました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光の茶道師範にもなりました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の間に生まれました。先ず今川氏の家来で、頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(天正9年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)の本能寺の変後に山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
椿は日本原産のツバキ科ツバキ属の常緑樹(照葉樹林)です。椿は北海道などを除く、日本各地に自生しています。椿は日本最古の正史「日本書紀」に第12代・景行天皇が熊襲(くまそ)の乱を鎮めた際、土蜘蛛(つちぐも)に対して海石榴(ツバキ)の椎を用いたと記されています。椿は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉が茶の湯に好んで用いると茶道で茶花として重要な地位を占めるようになりました。椿は江戸時代以降に多くの園芸品種が作られ、500以上の園芸品種があると言われています。なお椿は邪悪を祓うとも言われ、正倉院には災いを祓う海石榴の卯杖(うづえ)が収められています。
【御香宮神社 歴史・簡単概要】
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は起源が明確ではありません。御香宮神社は当初御諸神社(みもろじんじゃ)と称していたと言われています。御香宮神社は平安時代前期の862年(貞観4年)9月9日に境内の椎(しい)の木の根元から香のよい香水が湧いたことから第56代・清和天皇(せいわてんのう)から「御香宮」の名称を賜り、その後平安時代後期から鎌倉時代に天皇がしばしば社殿を造営したとも言われています。2度目の元寇である鎌倉時代後期の1281年(弘安4年)の弘安の役では第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)が討平祈願を行ったと言われています。室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が伏見城を築城した際、鬼門除けの神として城内に移されました。しかし秀吉死後の江戸時代初期の1605年(慶長10年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が元の場所に戻して社殿を造営し、水戸藩初代藩主・徳川頼房(とくがわよりふさ)が表門に伏見城の大手門が移したと言われています。江戸時代初期に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)が娘・千姫(せんひめ)の誕生祝に千姫神輿を奉納しました。
*参考・・・京都・御香宮神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【御香宮神社椿見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
御香宮神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報