八大神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

八大神社

八大神社の歴史を時代別年表にまとめ

八大神社の歴史を簡単にまとめています。八大神社は1294年(永仁2年)に八大天王を勧請したのが起源と言われています。一乗寺の産土神として、八坂神社から勧請して創建されたとも言われています。八大神社は北天王(北の祇園社)とも称されました。(時代別年表・重要人物下記参照)

八大神社(アクセス・歴史・・・)

【八坂神社】

●八坂神社(やさかじんじゃ)は656年(斉明天皇2年)に高麗(こうらい)から来日した調進副使(ちょうしんふくし)・伊利之使主(いりしおみ)が新羅(しらぎ)国・牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのおのみこと・牛頭天王(ごずてんのう))を山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に祀ったのが起源とも言われています。また八坂神社は876年(貞観18年)に南都の僧・円如(えんにょ)がお堂を建立し、薬師如来(やくしにょらい)像を祀り、同年に天神(てんじん・祇園神(ぎおんのかみ))が東山の麓である祇園林に降り立ったのが起源とも言われています。

【八大神社の起源・始まり】

●八大神社は1294年(永仁2年)3月15日に八大天王(はちだいてんのう)を勧請したのが起源と言われています。一乗寺の産土神(うぶすながみ)として、八坂神社(やさかじんじゃ・祇園社(ぎおんしゃ))から勧請して創建されたとも言われています。八大神社は八坂神社(祇園社)と同神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)、素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭神として祀り、北天王(北の祇園社)とも称されました。なお八大神社は京都の表鬼門に位置し、方除け・厄除け・縁むすび・学業の神として古くから人々に崇敬されました。

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【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1438年(永享10年)9月に舞楽寺天王(ぶがくじてんのう)を勧請しました。
●1438年(永享10年)11月に藪里牛頭天王(やぶさとてんのう)を勧請しました。
●室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で焼失して荒廃したと言われています。
●1506年(永正3年)に鰐口が奉納されました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●1596年(慶長元年)に社殿が再建されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1604年(慶長9年)に剣聖・宮本武蔵(みやもとむさし)が境内地である一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)で吉岡一門と決闘した際、決闘前に八大神社で奉拝しました。境内には決闘時の下り松の古木が御神木として祀られ、宮本武蔵像が建てられています。
●1639年(寛永16年)に社殿が修復されました。
●1643年(寛永20年)に石川丈山(いshかわじょうざん)筆の扁額(へんがく)が奉納されました。
●1719年(享保3年)に鳥居が建立されました。
●1728年(享保13年)に狛犬が建立されました。
●1756年(明和2年)に社殿の屋根が修復されました。
●1849年(嘉永2年)に社殿(神宝庫)が建立されました。
●江戸時代に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)、第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)、第119代・光格天皇(こうかくてんのう)が修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)に行幸した際、参詣して白銀などを奉納しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1873年(明治6年)10月5日に藪里牛頭天王社(やぶさとごずてんのうしゃ)を合祀しました。
●1874年(明治7年)3月5日に舞楽寺八大天王社(ぶがくじはちだいてんのうしゃ)を合祀しました。
●1924年(大正13年)に幣帛供進神社に指定されました。
●1926年(大正15年)には現在の本殿が建立されました。
●1964年(昭和39年)の御鎮座670年祭で社殿が改修されました。
●1993年(平成5年)の御鎮座700年祭で社殿が改修され、参集所が新築されました。
●2002年(平成14年)10月に宮本武蔵像が建立されました。

【八大神社ゆかりの宮本武蔵】

宮本武蔵は1582年(天正10年)または1584年(天正12年)に美作国(岡山)または播州(兵庫)に生まれたとも言われています。幼少の頃から兵法に心掛け、13歳の時に初めて新当流の有馬喜兵衛と闘って勝利し、16歳の時に但馬国の兵法者である秋山に勝利し、以来29歳までの60余回の試合で全て勝利したと言われています。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは徳川方の黒田官兵衛に従って父とともに九州で戦ったとも言われています。1612年(慶長17年)に巌流島で佐々木小次郎と決闘して勝利しました。1614年(慶長19年)からの大阪の陣では三河刈谷藩主・水野勝成の客将として徳川方に従軍して活躍しました。その後諸国を遍歴し、播磨国明石藩主・小笠原忠真の客分となり、1638年(寛永15年)の島原の乱で養子・伊織とともに軍監として従軍しました。1640年(寛永17年)に熊本藩初代藩主・細川忠利に客分として熊本に招かれ、熊本城東部に隣接する千葉城で「兵法三十五箇条」をまとめ、熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞にしばしば籠って兵法伝書「五輪書」を執筆しました。亡くなる数日前に自誓書とも言われる「独行道」をまとめ、「五輪書」とともに弟子・寺尾孫之允に与え、1645年(正保2年)に千葉城で亡くなりました。

【八大神社の歴史 備考】
*参考・・・八大神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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