仲源寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

仲源寺

仲源寺の歴史を時代別年表にまとめ

仲源寺の歴史を簡単にまとめています。仲源寺は1022年(治安2年)に仏師・定朝が末代衆生済度の為、自らが護持していた聖徳太子作の地蔵菩薩を胎内に込める丈六の地蔵菩薩を造仏し、本尊として四条橋の東北に祀ったのか起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

仲源寺(アクセス・歴史・・・)

【聖徳太子】

●聖徳太子(しょうとくたいし)は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)と穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇(すいこてんのう)が即位すると皇太子・摂政になり、蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。冠位十二階(かんいじゅうにかい)・十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺・広隆寺・法起寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりしました。

【仲源寺の起源・始まり】

●仲源寺は「仲源寺略縁起」によると1022年(治安2年)に仏師・定朝(じょうちょう)が末代衆生済度の為、自らが護持していた聖徳太子作の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を胎内に込める丈六の地蔵菩薩を造仏し、本尊として四条橋の東北に祀ったのか起源と言われています。定朝は丈六の地蔵菩薩を38ヶ月(3年2ヶ月)の歳月を掛け造仏したと言われています。その後衰微したとも言われています。なお仲源寺は祇園村の惣堂になったとも言われています。祇園祭の神用水清祓式では八坂神社の神職らが仲源寺から四条大橋に向かいます。
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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代後期に白河法皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))が祇園女御(ぎおんにょうご)と喧嘩をしたが、千手観音(せんじゅかんのん)の法要である千手愛敬法を行うと元の鞘(さや)に納まったと言われています。千手観音坐像(重要文化財)は洛陽三十三所観音霊場の第16番札所になっています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●1228年(安貞2年)に鴨川(かもがわ)が洪水になり、防鴨河使(ぼうかし)・中原為兼(なかはらためかね)が河原にあった地蔵菩薩に止雨を祈願すると雨が止んだ為、地蔵菩薩は「雨やみ地蔵(雨止地蔵)」と言われるようになりました。朝廷から「中原」の名字をもじって、寺号「仲源寺」が下賜されたと言われています。その後雨やみ地蔵(雨止地蔵)が転訛して、「目疾地蔵(めやみじぞう)」になり、眼病に霊験があるとして、参拝者が増加しました。
●鎌倉時代前期に第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の勅願寺(ちょくがんじ)になりました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、現在の場所に移されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1660年(万治3年)に僧・満誉が中興したと言われています。
●寛文年間(1661年~1673年)に僧・宝山が第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の命により、六地蔵(伏見地蔵・鳥羽地蔵・桂地蔵・常盤地蔵・鞍馬口地蔵・山科地蔵)以外の48寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所地蔵巡り(京都48願寺)に数えられました。
●1867年(慶応3年)に類焼したと言われています。
●江戸時代後期に第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)の援助によって再興されたと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●2005年(平成17年)に平成洛陽三十三所観音が復興され、札所になりました。

【仲源寺の開基・定朝】

仏師・定朝は平安時代中期に仏師職の祖と称される康尚の子として生まれたと言われています。1020年(寛仁4年)から父とともに太政大臣・藤原道長が創建した法成寺に9体の丈六阿弥陀像などを造仏し、1022年(治安2年)に仏師として初めて僧侶に与えられる法橋に叙されました。1026年(万寿3年)に藤原道長の娘で、第68代・後一条天皇の中宮・藤原威子の御産祈祷の為に27体の等身仏を造仏しました。1036年(長元9年)に後一条天皇仏事の御仏3体、1040年(長暦4年・長久元年)に第69代・後朱雀天皇念持の一尺銀薬師像も造仏しました。1047年(永承2年)に焼失した興福寺の仏像の修理・造仏し、法眼に叙されました。1053年(天喜元年)に平等院鳳凰堂に本尊・阿弥陀如来坐像を造仏し、阿弥陀如来坐像が定朝唯一の確実な仏像と言われています。定朝は寄木造技法の完成者とされ、その和様の仏像彫刻様式は定朝様と言われています。なお定朝は1057年(天喜5年)に亡くなりました。

【仲源寺の歴史 備考】
*参考・・・仲源寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

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