平等寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

平等寺の歴史を時代別年表にまとめ
平等寺の歴史を簡単にまとめています。平等寺は1003年(長保5年)に橘行平が自宅の屋敷を改造してお堂を建て、薬師如来像を安置し、因幡堂と名付けたのが起源と言われています。薬師如来像は因幡国(鳥取県)から飛来したと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【薬師如来像】
●959年(天徳3年)に「因幡堂縁起」によると従四位上(じゅしいじょう)中納言(ちゅうなごん)・橘行平(たちばなのゆきひら)が第62代・村上天皇(むらかみてんのう)の命により、因幡国(鳥取県)の一宮・宇倍神社に赴き、神事を済ませ、帰洛の途中で急病になり、病気平癒を神仏に祈願しました。ある夜の夢に異形の僧が現れ、因幡賀留津(いなばかるつ)の海中に衆生済度の為に仏の国(天竺・インド)からやって来た一つの浮き木があり、浮き木を供養すると必ず病気が治り、一切のあらゆる願いが成就するだろうと告げられました。橘行平は人々を集めて大網で海底を探らさせるとお告げの通りに一つの浮き木があり、よく見ると身の丈五尺余りの薬師如来(やくしにょらい)像でした。薬師如来像は天竺(インド)・祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の四十九院に数えられた東北療病院の本尊だったとも言われています。橘行平は供養する草堂を建て、薬師如来像を祀りました。草堂は因州国(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦にある座光寺(ざこうじ)の起源になりました。その後橘行平が病気が平癒し、無事に京に戻ることができました。ある夜に異形な僧から西の天から東の国の人々を救う為にやって来たという夢告があり、橘行平が夢から目覚めると家人に屋敷の西門に来客があると呼ばれ、来客にどなたと問うと因州の僧との返答があり、西の門を開けると丈五尺余りの薬師如来が立っており、その後碁盤(ごばん)の上に安置しました。これは1003年(長保5年)4月8日の黎明でした。
【平等寺の起源・始まり】
●平等寺は1003年(長保5年)に橘行平が自宅の屋敷を改造してお堂を建て、薬師如来像を安置し、因幡堂と名付けたのが起源と言われています。なお薬師如来像(重要文化財)は清凉寺(せいりょうじ・嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう))の釈迦如来(しゃkにょらい)・善光寺(ぜんこうじ)の阿弥陀如来(あみだにょらい)とともに日本三如来に数えられています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●平安時代中期に第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)に霊験譚(由緒)が伝わり、8ヶ所の子院を建立し、皇室の勅願所(ちょくがんしょ)にしました。その後歴代天皇も篤く尊崇し、薬師もうで(薬師詣)を行ったり、勅使が月参りしたりしました。また即位ごとに祈祷も行いました。
●1103年(康和5年)に火災に見舞われたと言われています。その後も度々火災に見舞われたと言われています。
●1171年(承安元年)に第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)から寺号「平等寺」を賜り、勅額が贈られました。高倉天皇は平等寺南側の東五条院に住し、因幡堂正面の真南の通りは東五条院に遠慮して南門を開けなかったことから不明門(あけずのもん)と言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●1284年(弘安7年)頃に時宗(じしゅう)の開祖・一遍上人(いっぺんしょうにん)が住したとも言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●室町時代に足利将軍家が相次いで参籠したと言われています。1424年(応永31年)には室町幕府5代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が参籠したと言われています。
●応永年間(1394年~1428年)に天台宗(てんだいしゅう)に属したと言われています。その後天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の総本山・園城寺(おんじょうじ・三井寺(みいでら))の末寺から聖護院(しょうごいん)の末寺になったと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●江戸時代に天台宗と真言宗(しんごんしゅう)の兼学になったと言われています。
●1864年(元治元年)にどんどん焼けで本堂が焼失しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1886年(明治19年)に現在の本堂が再建されました。
●2012年(平成24年)に平安時代に始まったとも言われる京都十二薬師霊場が復活し、第1番札所になりました。
●近年にがん封じの寺として信仰されるようになりました。
【平等寺の開基・橘行平】
橘行平は平安時代中期に橘氏長者・橘為政の子として生まれました。1002年(長保4年)12月26日に常陸介に任じられ、1005年(寛弘2年) 2月29日に従四位に叙され、同年4月14日に因幡守に任じられました。因幡守の在任中に八頭郡宮原に居を構え、盗賊を討伐し、領民に羽子板の生産法を伝えたと言われています。その後官人・百姓らから非法と苛政を訴えられて因幡介・因幡千兼(千里)を殺害し、1007年(寛弘4年)7月23日に官人・百姓らからの愁訴状が朝廷に出され、弁明できずに因幡守を解任されたと言われています。橘行平には橘行頼などの子があり、その子孫が平等寺の住職になりました。
【平等寺の歴史 備考】
*参考・・・平等寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ