鹿王院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

鹿王院の歴史を時代別年表にまとめ
鹿王院の歴史を簡単にまとめています。鹿王院は1387年(元中4年・嘉慶元年)に宝幢寺内に開山塔として建立されたのが起源です。生前に造られた宝幢寺開山・春屋妙葩の寿塔を守る塔頭として建立されたと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【宝幢寺(宝幢禅寺)】
●宝幢寺は1380年(天授6年・康暦2年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧である普明国師(ふみょうこくし)・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を開山として創建しました。室町時代の記録「花営三代記」や開山伝「宝幢開山知覚普明国師行業実録」によると1379年(天授5年・康暦元年)のある夜、足利義満は「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢如来を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」という夢告を受け、帰依していた普明国師・春屋妙葩を開山として建立を開始し、1380年(天授6年・康暦2年)に完成したと言われています。また足利義満は夢の中で多聞天(たもんてん)と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が寺院を建立すれば寿命が延びると語り合うのを聞き、延命を祈願して寺院を建立したとも言われています。当初、寺号を興聖寺(こうしょうじ)と言い、その後宝幢寺(ほうどうじ・覚雄山大福田宝幢禅寺鹿王院)に改めたと言われています。
【鹿王院の起源・始まり】
●鹿王院は1387年(元中4年・嘉慶元年)に宝幢寺内に開山塔として建立されたのが起源です。生前に造られた宝幢寺開山・春屋妙葩の寿塔を守る塔頭(たちゅう)として建立されたと言われています。春屋妙葩は1312年(応長元年)に甲斐(山梨)に生まれ、美濃(岐阜)の永保寺(えいほうじ)・甲斐の恵林寺(けいりんじ)で学び、母方の叔父・夢窓疎石(むそうそせき)のもとで出家しました。その後渡来僧である竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・清拙正澄(せいせつしようちよう)に学び、夢窓疎石の法を嗣いで天龍寺(てんりゅうじ)の住職になりました。その後足利義満の帰依を受け、相国寺(しょうこくじ)が創建されると叔父・夢窓疎石が開山、春屋妙葩が第2世になりました。春屋妙葩は1388年(元中5年・嘉慶2年)に亡くなりました。鹿王院の寺号は野鹿の群れが現れたことと仏教の開祖・お釈迦様が最初に説法を行った鹿野苑に由来しています。なお鹿王院は宝幢寺の唯一の塔頭で、宝幢寺の住職(住持)を室町幕府に推挙したり、鹿王院に属する末寺の住職(住持)を任命したり、全国に点在する荘園を管理したりしました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
●1380年(天授6年・康暦2年)に山門が建立されました。山門は足利義満筆の扁額「覚雄山」とともに鹿王院建立時から現存しているものです。
●南北朝時代から室町時代中期頃に足利義満、室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)ら歴代足利将軍が宝幢寺・鹿王院を参詣しました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、1468年(応仁2年)に嵯峨野一帯が焼失し、宝幢寺が廃絶しました。鹿王院だけが再建され、宝幢寺の格式(寺籍)を継承しました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●1596年(文禄5年)に慶長伏見大地震(けいちょうふしみじしん)によって伽藍が荒廃しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●寛文年間(1661年~1673年)に徳川四天王に数えられた酒井忠次(さかいただつぐ)の子・酒井忠知が再興し、酒井忠知の子・虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山になりました。寛文年間(1661年~1673年)に庫裏が再建されました。
●江戸時代前期頃に臨済宗天龍寺派の大本山・天龍寺(てんりゅうじ)の塔頭になったと言われています。
●1676年(延宝4年)に本堂(開山堂)に再建されました。
●1763年(宝暦13年)に舎利殿(駄都殿)に建立されました。また1763年(宝暦13年)頃に庭園(京都市指定名勝)も作庭されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1936年(昭和11年)に映画俳優・大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)が茶席「芥室(かいしつ)」を寄進しました。
●1968年(昭和43年)に単立寺院になりました。
【鹿王院の開基である足利義満】
足利義満は1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮と側室・紀良子の間に生まれました。紀良子は石清水八幡宮の検校・善法寺通清の娘で、第84代・順徳天皇の玄孫で、足利義満は「春王」と名付けられました。1366年(正平21年・貞治5年)に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜りました。1367年(正平22年・貞治6年)に父・足利義詮が亡くなると10歳で家督を継ぎ、1369年(正平23年・応安元年)に征夷大将軍宣下を受け、室町幕府3代将軍になりました。1394年(応永元年)に将軍職を子で、足利義持に譲ったが、その後も実権を手放さずに金閣寺の前身・北山殿で政務を執りました。足利義満は南北朝の合一を果たし、北山文化を開花させました。なお足利義満は1408年(応永15年)に亡くなりました。
【鹿王院の歴史 備考】
*参考・・・鹿王院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ