第72代・白河天皇(しらかわてんのう)と壬生寺節分会

第72代・白河天皇と壬生寺節分会

壬生寺は平安時代後期に第72代・白河天皇が篤く信仰され、御所から見る壬生寺が裏口の鬼門に位置することから毎年2月に白河天皇の発願によって節分厄除大法会が行われるようになりました。壬生寺は京都の裏鬼門に位置し、古くから京都における節分鬼門詣りの一端を担いました。

【壬生寺節分会 日程時間(要確認)】
壬生寺節分会は例年節分(立春の前日)とその前日・後日の3日間に行われています。なお節分の日程は2月3日になることが多いが、変動する場合があります。(節分は毎年同じ日ではありません。)
壬生寺節分会

【壬生寺節分会 歴史・簡単概要】
壬生寺節分会は平安時代(794年~1185年)後期に第72代・白河天皇の発願によって始められ、900年以上の歴史があります。節分会では本尊・延命地蔵菩薩像(重要文化財)に除災・招福を祈願し、身代り守・起上がりダルマ守などが授与されます。節分会では厄除け祈祷会などが行われ、壬生狂言の演目「節分」が演じられます。なお壬生寺は吉田神社・北野天満宮・伏見稲荷大社(八坂神社)とともに節分に行う四方参りに数えられています。

【第72代・白河天皇(しらかわてんのう)】
壬生寺は平安時代(794年~1185年)後期に第72代・白河天皇(しらかわてんのう)が篤く信仰され、御所から見る壬生寺が裏口の鬼門(きもん)に位置することから毎年2月に白河天皇の発願によって節分厄除大法会(せつぶんやくよけだいほうえ)が行われるようになりました。ちなみに壬生寺は京都の裏鬼門(南西)に位置し、古くから京都における節分鬼門詣りの一端を担いました。壬生寺は延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)像を本尊として祀り、古来からの地蔵信仰とともに厄除・開運の寺として庶民から信仰されるようになり、節分会は900年以上の受け継がれてきました。なお白河天皇は承暦年間(1077年~1080年)に壬生寺に行幸し、「地蔵院」の勅額・寺号を賜ったと言われています。

●第72代・白河天皇は平安時代(794年~1185年)後期の1053年(天喜元年)7月7日に第70代・後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の皇太子で、第71代・後三条天皇(ごさんじょうてんのう)となる尊仁親王(たかひとしんのう)と藤原茂子(ふじわらのもし)の第1皇子として生まれました。幼少時に母・茂子と外祖父・藤原能信(ふじわらのよしのぶ)が亡くなると父・尊仁親王が関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)から冷遇されたと言われています。1065年(治暦元年)に13歳で元服し、1068年(治暦4年)に父・尊仁親王が後三条天皇に即位すると親王宣下を受けて貞仁親王(さだひとしんのう)になりました。翌1069年(延久元年)に立太子され、1071年(延久同3年)に関白・藤原師実(ふじわらのもろざね)の養女・藤原賢子(ふじわらのけんし)が入内しました。1072年(延久4年)に父・後三条天皇から譲位され、20歳で白河天皇に即位しました。父・後三条上皇とその母・陽明門院(ようめいもんいん)が異母弟・実仁親王(さねひとしんのう)とその同母弟・輔仁親王(すけひとしんのう)に皇位を継がせる意志を持っていたことから白河天皇が反発したが、1085年(応徳2年)に実仁親王が亡くなると1086年(応徳3年)に異母弟・輔仁親王ではなく、実子で、第3皇子・善仁親王(たるひとしんのう)を立太子し、即日譲位して第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)に即位させました。その後関白・藤原師実と協調しながら堀河天皇を後見する為に院政を開始し、度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、叙位・任官に独裁的な発言力を持ちました。上皇の武力として北面の武士(ほくめんのぶし)も創設しました。また仏教にも傾倒し、1096年(永長元年)に鍾愛する第1皇女・郁芳門院が亡くなると出家して法皇になり、法名を融観と称しました。洛東白河に「国王の氏寺」と謳われた法勝寺(ほっしょうじ)も創建しました。1107年(嘉承2年)に子・堀河天皇が崩御すると母が若くして亡くなり、養育していた孫である第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)を即位され、更に鳥羽天皇に譲位させて曽孫である第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)を即位させました。白河天皇は子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、曽孫・崇徳天皇の3代・43年間に渡って院政を行ない、後世に「治天の君」とも言われました。1111年(天永2年)に自らの墓所として鳥羽離宮(とばりきゅう)の泉殿に三重塔を建立しました。白河天皇は専制的な政治を行ったが、意のままにならないものとして、「賀茂河(かもがわ)の水、双六の賽(すごろくのさい)、山法師(やまほうし)、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話・天下三不如意(てんかさんふにょい)が残されています。藤原宗忠(ふじわらのむねただ)は白河天皇が崩御した際、日記「中右記(ちゅうゆうき)」に「法皇の威光は四海に満ち、天下これに帰服した」と記しました。第72代・白河天皇は1129年(大治4年)7月24日に亡くなりました。白河天皇の日記には「白河院御記」があります。

【第72代・白河天皇と壬生寺節分会 備考】
京都節分・豆まき2026

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