吉田兼倶(よしだかねとも)と吉田神社節分祭
吉田兼倶と吉田神社節分祭
吉田神社節分祭では1484年(文明16年)に吉田神道を創始した吉田兼倶が吉田(卜部)家邸(左京室町)から吉田神社内に遷座させた斎場所大元宮を中心に特殊神事が行われます。疫神祭は中門から外に向かって行われ、洗米や神酒が門外に撒かれます。
【吉田神社節分祭 日程時間(要確認)】
吉田神社節分祭は例年節分(立春の前日)とその前日・後日の3日間に行われています。なお節分の日程は2月3日になることが多いが、変動する場合があります。(節分は毎年同じ日ではありません。)
吉田神社節分祭
【吉田神社節分祭 歴史・簡単概要】
吉田神社節分祭は室町時代(1336年~1573年)から行われています。節分祭はかつて京洛の一大行事とも言われました。節分祭では厄除け・招福を祈願し、古くから魔除けの力があるとも言われている梔子色(くちなし色)の御神札などが授与されます。節分祭では節分前日祭・疫神祭・追儺式(鬼やらい神事)・節分当日祭・火炉祭・節分後日祭が行われます。なお吉田神社は壬生寺・北野天満宮・伏見稲荷大社(八坂神社)とともに節分に行う四方参りに数えられています。
【吉田兼倶(よしだかねとも)】
吉田神社節分祭では室町時代(1336年~1573年)中期の1484年(文明16年)に吉田神道を創始した吉田兼倶(よしだかねとも)が吉田(卜部)家邸(左京室町)から吉田神社内に遷座させた斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を中心に特殊神事(節分前日祭・節分当日祭・節分後日祭・疫神祭)が行われます。疫神祭(えきじんさい)は節分の前日に大元宮の中門で行われ、災いをもたらす神である疫神に「荒ぶる事なく山川の清き地に鎮まります」ようにと祈願します。疫神祭は中門から外に向かって行われ、洗米や神酒が門外に撒かれます。大元宮前には厄塚もあり、厄除け祈願の参拝者が大勢訪れます。参拝者は厄塚に厄神や心に潜む鬼を封じ込め、斎場所大元宮の社殿と繋がった注連縄(しめなわ)により、八百万の神(やおよろずのかみ)との感応によって一年の健康を祈願します。また参拝者は姓名など記した紙に賽銭(さいせん)と厄豆を包んで、厄塚に向けて投げて厄を払うこともあります。なお吉田兼倶は1511年(永正8年)2月19日に77歳で亡くなり、1513年(永正10年)2月に吉田兼倶を祭神とする神龍社(神龍大明神)が吉田神社内に創建されました。その後1880年(明治13年)に神龍社が吉田神社の末社になりました。
●吉田兼倶は室町時代(1336年~1573年)中期の1435年(永享7年)に神祇官(じんぎかん)で、神祇権大副(じんぎごんのたいふ)・卜部兼名(うらべかねな)の子として生まれました。母親は不詳で、兄弟に卜部兼昭(かねあき)がいます。当初、兼敏(かねとし)と称していたが、1466年(文正元年)に名前を兼倶に改名しました。1449年(文安6年・宝徳元年)に神祇権少副兼中務少輔(じんぎのごんしょうふくけんなかつかさのしょうゆう)になっていたとも言われています。春日社に羽蟻が出現した際、御卜に神祇権少副兼中務少輔として署名しています。権大外記(ごんのだいげき)・中原康富(なかはらのやすとみ)の「康富記」に記されているのが文献上の初見です。1467年(文正2年・応仁元年)に正四位上に叙せられ、また昇殿が許され、侍従兼権大副(じじゅうけんごんのたいふ)になりました。またこの頃に卜部家の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経(かみとあらはれましますみつくりかえしのはしめいつのすかたをつたふるかみのたへなるみのり)」を著し、吉田神道(唯一神道・卜部神道・元本宗源神道・唯一宗源神道)の基礎を築いたと言われています。「日本紀正義」によると1470年(文明2年)に「宗源神道誓紙(そうげんしんどうせんし)」を定めたと言われています。1472年(文明4年)に従三位、1477年(文明9年)に正三位、1480年(文明12年)に従二位に昇叙されました。1473年(文明5年)に神祇斎場所の勅許を得て、1477年(文明9年)に神祇斎場所を全国諸神降臨の祥地としました。1480年(文明12年)に第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の為に日本最古の正史「日本書紀」を講書初めの儀で講じました。1484年(文明16年)に吉田神社に斎所として虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を創建し、全国各地の神を祀りました。1489年(延徳元年)に伊勢の神器が吉田山に降臨したと密奏し、伊勢神宮から非難されました。1492年(明応元年)に神祇官復興の勅許を得て、神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)と称したと言われています。1493年(明応2年)に神祇大副になりました。1499年(明応8年)に42歳で亡くなった子・兼致の為に吉田山に神龍院を創建し、長老に子・妙亀を就けました。吉田兼倶は反本地垂迹(はんほんじすいじゃく)の立場で、儒教・仏教・道教の教理をとり入れ、第103代・後土御門天皇をはじめ公卿(くぎょう)・将軍家などに教えを広め、朝廷・幕府に取り入って勢力を拡大しました。また地方の神社に神位・神職に位階を授ける制度を作り上げ、吉田神道隆盛の基礎を確立しました。吉田兼倶は「神道大意」・「唯一神道名法要集」・「日本書紀神代抄」などを記しました。なお吉田兼倶は1511年(永正8年)に亡くなりました。
【吉田兼倶と吉田神社節分祭 備考】
京都節分・豆まき2026













