比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と祇園祭
比叡山延暦寺と祇園祭
八坂神社は876年(貞観18年)に興福寺の僧・円如がお堂を建立して薬師如来を祀ったのが起源とも言われ、興福寺に属していました。974年(天延2年)に延暦寺の別院になったと言われ、祇園祭は延暦寺とその守護神・日吉大社から大きな影響を受けました。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)】
八坂神社は平安時代(794年~1185年)前期の876年(貞観18年)に南都(奈良)・興福寺(こうふくじ)の僧・円如(えんにょ)がお堂を建立して薬師如来(やくしにょらい)像を祀ったのが起源とも言われ、古くは興福寺に属していました。その後974年(天延2年)に延暦寺(えんりゃくじ)の別院(末寺)になったとも言われ、八坂神社と祇園祭は延暦寺とその守護神・日吉大社(ひよしたいしゃ)から大きな影響を受けました。室町時代(1336年~1573年)には神輿渡御の費用は延暦寺が京都の日吉神人に賦課し、山鉾巡行の費用は室町幕府が京都の町々に賦課して調達しました。延暦寺では強訴(ごうそ)が受け入れられなかった場合、日吉大社の日吉祭(日吉小五月祭)を行わず、例年旧暦の6月に行われていた祇園祭も度々延期になりました。室町時代中期の1447年(文安4年)から応仁の乱が勃発する1467年(応仁元年)までの20年間には祇園祭が11回も延期され、その内の6回は旧暦の12月に行われました。中原康富(なかはらのやすとみ)が記した「康富記(やすとみき)」1449年(宝徳元年)12月1日の条に「延暦寺六月会、山訴によって今に延引す。今日よりこれを行わる。この日、祇園神輿三基、透廊に出でしめ給う。来たる七日、御輿迎えあるべし。十四日、祭礼あるべきの故なりと云々。去る六月の祭礼、日吉神輿動座・山門閉籠事等のことによって、本寺として支え申すの間、延引せしめおわ」と記され、広橋綱光(ひろはしつなみつ)が記した「綱光公記(つなみつこうき)」1449年(宝徳元年)12月7日の条に「今日、祇園祭礼、無為と云々。珍重々々、これ山訴、今に延引によるなり。風流等例の如し」と記され、祇園祭が延期されて12月に行われたことが分かります。戦国時代(1493年~1590年)の1511年(永正8年)には日吉大社の祭礼が遅延になって山鉾の準備が間に合わず、翌1512年(永正9年)5月23日に前年1511年(永正8年)分の山鉾巡行が行われ、1512年(永正9年)6月7日・14日に当年分の山鉾巡行が行われ、1年に2回も山鉾巡行が行われました。祇園祭は1467年(応仁元年)に勃発し、約10年間続いた応仁の乱によって33年間も中絶し、1500年(明応9年)に再興されたが、その後も度々延期されました。戦国時代(1493年~1590年)の1571年(元亀2年)9月に織田信長(おだのぶなが)が比叡山を焼き討ちすると延暦寺・日吉大社の堂塔がことごとく炎上し、八坂神社は延暦寺の支配から離れたと言われています。ちなみに山科言継(やましなときつぐ)の日記「言継卿記」1571年(元亀2年)12月7日の条に「山王祭(日吉祭)雖無之、日吉社・山上等無之間、以上意行之」と記され、日吉祭が行われず、祇園祭が比叡山焼き討ち後の12月7日に上意で行われたことが分かります。ちなみに南北朝時代の1384年(元中元年・至徳元年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が八坂神社を延暦寺から分離させたとも言われています。
●延暦寺は奈良時代(710年~794年)末期の788年(延暦7年)に天台宗の宗祖である伝教大師・最澄が自ら刻んだ薬師如来を本尊とする一乗止観院を創建したのが起源です。平安時代(794年~1185年)前期の791年(延暦10年)に第50代・桓武天皇の御願寺になり、794年(延暦13年)に桓武天皇が行幸して落慶法要が行われたと言われています。804年(延暦23年)に最澄は真言宗の宗祖である弘法大師・空海らとともに遣唐使として中国に渡り、805年(延暦24年)に帰国しました。806年(延暦25年)に勅許によって天台宗が公認されました。822年(弘仁13年)6月4日に最澄が亡くなり、823年(弘仁14年)に第52代・嵯峨天皇から最初の年号寺「延暦寺」が許されました。866年(貞観8年)に第56代・清和天皇から最澄に諡号「伝教大師」が贈られました。935年(承平5年)に火災で根本中堂などの伽藍の多くを焼失し、その後も度々焼失したと言われています。戦国時代(1493年~1590年)の1571年(元亀2年)に織田信長が浅井氏・朝倉氏と通じた延暦寺を焼き討ちし、伽藍の多くを焼失しました。1582年(天正10年)に本能寺の変で織田信長が自害すると青蓮院尊朝法親王が再興の為に朝廷・諸大名などに勧進を始めました。桃山時代(1583年~1603年)の1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉が再興を許可し、1604年(慶長9年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が横川の中堂を再建しました。江戸時代(1603年~1868年)前期の1607年(慶長12年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康が天海大僧正に再興を命じ、1642年(寛永19年)に天海大僧正の進言により、江戸幕府3代将軍・徳川家光が根本中堂を再建しました。
【比叡山延暦寺と祇園祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)