祇園祭歴史とは牛頭天王の祟りが由来・起源(869年~)

祇園祭前祭宵山

祇園祭歴史年表・由来

祇園祭歴史を簡単に紹介しています。祇園祭とは869年(貞観11年)に京都をはじめ全国に疫病が流行し、牛頭天王(素戔嗚尊)の祟りであるとしたのがその歴史の由来・起源です。祇園祭では病魔退散(疫病退散)を祈願しました。祇園祭の歴史は平安時代前期に始まり、千年以上の歴史があります。ただその長い歴史の中で、応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって33年間も途絶えました。

【祇園祭 日程】
祇園祭は7月1日の吉符入(きっぷいり) から31日の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2022日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)

【前史 祇園祭歴史】
●祇園祭の起源前、平安時代前期の863年(貞観5年)に疫病が流行し、疫神(えきじん)や死者の怨霊(おんりょう・祟り(たたり))を鎮める為、禁苑(宮中の庭)であった神泉苑(しんせいえん)で最初の御霊会(ごりょうえ)が行われました。ただその後も疫病が続いたことから度々御霊会も行われ、祇園祭を行う八坂神社(やさかじんじゃ・祇園社(ぎおんしゃ))の主祭神でもあった牛頭天王(ごずてんのう)=素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、無病息災を祈願しました。牛頭天王は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の神で、仏教の開祖・お釈迦さまが説法を行った祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされていました。また牛頭天王は東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)の教主・薬師如来(やくしにょらい)の垂迹(すいじゃく)で、素戔嗚尊の本地(ほんじ)とされました。薬師如来は大医王(だいいおう)・医王善逝 (いおうぜんぜい) とも言われ、左手に病を癒す為の薬壷(やっこ)を持ち、右手に施無畏(せむい)の印を結んでいます。ちなみに祇園祭は明治時代までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と言われていました。
現在、神泉苑の南端には八坂神社御供社(ごくうしゃ・又旅所(またたびしゃ))が祀られています。
八坂神社御供社(歴史概要・・・)

【由来・起源(創始) 祇園祭歴史】
●平安時代前期の869年(貞観11年)に京都をはじめ全国に再び疫病が流行し、牛頭天王(素戔嗚尊)の祟りであるとし、神祇官(じんぎかん)・卜部日良麿(うらべのひらまろ・卜部平麻呂)が神泉苑に全国の国の数と同じ66本の鉾(ほこ)を立て、悪霊を遷して穢れ(けがれ)を祓い、薬師如来の化身とされる牛頭天王を祀り、八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散を祈願する祇園御霊会が行われました。祇園祭の歴史がいつから始まったかと言えば、この869年(貞観11年)の祇園御霊会が祇園祭の由来・起源と言われています。ちなみにかつての祇園祭がどんな祭りだったかと言うと読経が行われるなど仏教色が強かったと言われています。日本では仏教の伝来以降に日本独自の神道と仏教が融合した神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代を迎えます。
★江戸時代中期の寛文年間(1661年~1673年)に編纂された「祇園本縁雑実記」に「貞観十一年(869年)天下大疫之時(中略)六月七日建六十六本之矛長二丈許、同十四日、率浴中男児及郊外百姓而送神輿子神泉苑」と記され、869年(貞観11年)が祇園祭の由来・起源(創始)とされています。ただ祇園祭は正史に記載がなく、室町時代中期の神道家・吉田兼倶(よしだかねとも)が編纂したと言われる「二十二社註式」に「天禄元年(平安時代中期の970年)六月十四日初御霊会(祇園祭)自今今年行之」と記され、この記述が比較的確実なの史料とされています。
★平安時代前期には864年(貞観6年)~866年(貞観8年)に富士山の貞観大噴火(じょうがんだいふんか)、866年(貞観8年)に応天門の変(おうてんもんのへん)、868年(貞観10年)7月30日に姫路市付近で播磨国地震(はりまのくにじしん)、869年(貞観11年)7月9日に東北地方で貞観地震が発生しました。また貞観年間(859年~877年)には平安京でインフルエンザ・赤痢などの感染症も流行していました。このような天変地異・社会情勢・疾病が祇園祭の歴史に影響しています。
現在、7月24日の祇園祭還幸祭(かんこうさい)では3基の神輿(中御座(なかござ)神輿・東御座(ひがしござ)神輿・西御座(にしござ)神輿)が神泉苑南端に祀られている八坂神社御供社に立ち寄り、中御座神輿は神泉苑拝礼も行います。中御座神輿には素戔嗚尊、東御座神輿には素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、西御座神輿には素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ)の神霊が遷されます。

【平安時代中期 祇園祭歴史】
●970年(天禄元年)から祇園祭が毎年旧暦の6月に行われるようになりました。6月7日に神輿を迎えて神事が行われ、6月14日に神輿を送りました。神事には朝廷や院(上皇)から馬長(うまおさ)・田楽(でんがく)・獅子(しし)などが奉納されました。この970年(天禄元年)を祇園祭の創始とする説もあります。
●974年(天延2年)に東洞院高辻に住む秦助正(はたのすけまさ)が「汝の家を影向の地とせん 速やかに朝廷に奏上せよ」との八坂大神(やさかのおおかみ)からの神託を夢の中で受け、第64代・円融天皇(えんゆうてんのう)も同じ夢を見ていたことから秦助正の自宅が大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)になり、神殿が建立されたとも言われています。大政所御旅所には祇園祭の大政所神輿(おおまんどころみこし・素戔嗚尊)・八王子神輿(はちおうじみこし・八柱御子神)を奉安しました。また円融天皇は祇園祭の神輿が鴨川を渡って、平安京を渡御するように勅命しました。現在、祇園祭の神輿渡御では円融天皇直筆とされる勅板(ちょくばん・勅裁御板)が神輿とともに渡御しています。その後祇園祭が官祭になったとも言われています。
現在、7月24日の祇園祭還幸祭では3基の神輿が大政所御旅所に立ち寄り、八坂神社の神職が拝礼します。
大政所御旅所(歴史概要・・・)
●999年(長保元年)に雑芸者・無骨(むこつ)が天皇の即位の礼の直後に行う新嘗祭(にいいなめさい)である大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似た作山を造りました。標山は庭上に設けられた2基の作り山で、作り山にはめでたい祥瑞(しようずい)を表す様々な意匠が施されていました。この999年(長保元年)の作山が祇園祭の山鉾・山鉾巡行の由来・起源とも言われています。
★平安時代末期に編纂された「本朝世紀(ほんちょうせいき)」の長保元年(平安時代中期の999年)六月十四の条に「但今日祇園天神会(祇園祭)也。而自去年。京有雑芸者。是則法師形也。世号謂無骨。実名者(頼信。世間交仁安)等者。件法師等為令京中之人見物。造村凝渡彼社頭。而如云々者。件村作法。宛如引大嘗会之標。(後略)」と記されています。京都で評判を集めていた法師姿の雑芸者・無骨が八坂神社の社頭で、大嘗会の標山に似た作山を制作し、引き廻したと記されています。
●清少納言(せいしょうなごん)が記した「枕草子(まくらのそうし)・(能因本)」には「心ちよげなるもの卯杖のほうし。神楽の人長。池の蓮の村雨にあひたる。御霊会(祇園祭)の馬長。また、御霊会のふりはた取り持たる者。」と記し、祇園祭が注目されていました。

【平安時代後期 祇園祭歴史】
●1069年(延久元年)に田楽(でんがく)50組が祇園祭に参加し、田楽・猿楽(さるがく)なども行われるようになったと言われています。
●1136年(保延2年)に少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)が建立されたと言われています。少将井御旅所には祇園祭の少将井神輿(しょうしょういみこし・櫛稲田姫命)を奉安しました。
現在、少将井御旅所の小祠(天王社)が京都御苑内に祀られている宗像神社(むなかたじんじゃ)境内に遷され、7月24日に祇園祭少将井社報告が行われています。
少将井御旅所(歴史概要・・・)
●1172年(承安2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))が神輿3基を寄進しました。

【鎌倉時代 祇園祭歴史】
平安時代末期から祇園祭が一段と賑やかになったが、鎌倉時代に鉾・長刀(なぎなた)に装飾を付けたものが祇園祭の行列に参加するようになりました。鎌倉時代後期の「花園天皇宸記(はなぞのてんのうしんき)」の1321年(元亨元年)7月24日の条によると鉾を取り巻く鉾衆の回りで、鼓打らが風流の舞曲を演じたと記されています。

【南北朝時代 祇園祭歴史】
●1376年(天授2年・永和2年)に三条公忠(さんじょうきみただ)の「後愚昧記(ごぐまいき)」によると祇園祭で神事が行われず、例年通りに鉾の巡行が行われたことが記されています。また高大鉾が転倒して死者が出たことも記され、南北朝時代頃には祇園祭の山鉾は一人で担ぐ剣鉾のような小型のものではなく、大型化していたと言われています。このころから現在のような祇園祭の大型の山鉾が出現したと言われています。
●1378年(天授4年・永和4年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が猿楽師(さるがくし)・世阿弥(ぜあみ)とともに祇園祭の山鉾を見物したと言われています。ちなみに室町時代に足利将軍家は久世舞(曲舞)を車の上で演じる久世舞車(くせまいくるま)を祇園祭に調進したりしていました。

【室町時代 祇園祭歴史】
●1441年(嘉吉元年)またはそれ以前に長刀鉾(なぎなたほこ)が創建され、長刀鉾は現在の祇園祭の山鉾の中で最古の山鉾と言われています。
●室町時代の一時期に延暦寺(えんりゃくじ)の影響力により、八坂神社は延暦寺の守護神・日吉大社(ひえたいしゃ・ひよしたいしゃ)の末社にされ、日吉神社の祭礼・日吉祭(山王祭(さんのうさい))が行われない場合、祇園祭も中止させられたり、延期させられたりしました。また祇園祭が行われなかった場合、粟田神社(あわたじんじゃ)の粟田祭(あわたまつり)が代わりに行われたとも言われています。
★粟田神社は平安時代中期の876年(貞観18年)に第56代・清和天皇(せいわてんのう)が兵火や疫病への勅願を発し、勅使・藤原興世(ふじわらのおきよ)が八坂神社で祈願した際、大己貴命(おおなむちのみこと)の神託により、八坂神社の祭神・素戔鳴尊(牛頭天王)に縁がある現在の場所に創建したとも言われています。粟田祭は平安時代中期の1001年(長保3年)の旧暦9月9日の夜、一人の神童が八坂神社に現れ、「今日より7日後に八坂神社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」と神人に告げ、お告げの通りに瑞光が現れ、御神幸が為されたのが起源とされています。なお祇園祭の山鉾は粟田神社粟田祭の剣鉾が原型とも言われています。
●1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、祇園祭が33年間にわたって一時途絶えました。

【戦国時代 祇園祭歴史】
●1500年(明応9年)に町衆の手によって祇園祭が再興されました。「祇園社記」によると6月7日に26基の山鉾、6月14日に10基の山鉾が巡行しました。ちなみに祇園祭再興の際に室町幕府の奉行衆・松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)が古老から聞き取って記した「祇園会山鉾事」によると応仁の乱以前には60基の山鉾(6月7日の32基・6月14日の28基)があった言われています。松田豊前守頼亮の私邸で初めての祇園祭のくじ取り式が行われました。
●1504年(永正元年)に第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)が祇園祭を観覧しました。
●1533年(天文2年)に日吉大社の祭礼延期によって祇園祭が延期されたが、「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と訴え、神事は中止されたが、山鉾巡行が行われまし。この頃から祇園祭では神事よりも山鉾巡行に関心が集まるようになったとも言われています。
●1582年(天正10年)6月2日に織田信長(おだのぶなが)が自刃する本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こり、祇園祭が11月に延期されました。

【安土桃山時代 祇園祭歴史】
●1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、祇園祭の神輿が泰安されていた大政所御旅所と少将井御旅所が四条通寺町にある現在の四条御旅所(八坂神社御旅所)に統合されました。
八坂神社御旅所(歴史概要・・・)
●安土桃山時代以降に祇園祭が一層盛大に行われるようになり、狩野永徳(かのうえいとく)筆の「洛中洛外図屏風(国宝)」にその様子が描かれています。「洛中洛外図屏風」は狩野永徳が描き、織田信長が上杉謙信(うえすぎけんしん)に贈ったものです。現在の祇園祭の山鉾では船鉾(ふねほこ)・岩戸山(いわとやま)・鶏鉾(にわとりほこ)・白楽天山(はくらくてんやま)・函谷鉾(かんこほこ)・蟷螂山(とうろうやま)・四条傘鉾(しじょうかさほこ)が描かれています。

【江戸時代 祇園祭歴史】
●江戸時代に祇園の芸妓による風流行列なども祇園祭で行われるようになりました。
●1708年(宝永5年)の宝永の大火・1788年(天明8年)の天明の大火・1864年(元治元年)の禁門の変(元治の大火)が起こり、多くの祇園祭の山鉾が焼失しました。

【明治時代以降 祇園祭歴史】
●明治維新後の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により、祇園祭の名称が祇園御霊会から改められ、八坂神社の社名も祇園社から八坂神社に改められました。
●1967年(昭和41年)に祇園祭で7月17日の山鉾巡行(前祭)と7月24日の山鉾巡行(後祭)が統合され、7月17日の合同巡行になりました。
●2009年(平成21年)に祇園祭の山鉾行事がユネスコの無形文化遺産に登録されました。
●2014年(平成26年)に祇園祭で山鉾巡行(後祭)が復活し、7月17日に山鉾巡行(前祭)、7月24日に山鉾巡行(後祭)が行われるようになりました。
祇園祭山鉾巡行(後祭)
●2019年(令和元年)に祇園祭創始1,150年を迎えました。
●2020年(令和2年)・2021年(令和3年)に新型コロナウイルスの影響により、山鉾巡行など祇園祭の主要行事が中止になりました。

【祇園祭歴史 備考】
祇園祭2022日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
●参考・・・八坂神社ホームページ

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