室町幕府管領・細川政元(ほそかわまさもと)と祇園祭
室町幕府管領・細川政元と祇園祭
室町幕府管領・細川政元は1500年(明応9年)の祇園祭再興に貢献したと言われています。細川政元が山名政豊と和睦すると応仁の乱が終息する兆しを見せ、明応の政変によって室町幕府の実権を掌握すると幕府内で祇園祭再興の兆しが現れます。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【室町幕府管領・細川政元(ほそかわまさもと)】
室町幕府管領・細川政元は1500年(明応9年)の祇園祭再興に貢献したと言われています。祇園祭は細川政元の父・細川勝元(ほそかわかつもと)を総大将とする東軍と山名宗全(やまなそうぜん)を総大将とする西軍が1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)まで戦ったこともあり、1500年(明応9年)の再興までの33年間も中絶しました。1473年(文明5年)3月に山名宗全が亡くなり、同年5月に細川勝元が亡くなり、翌1474年(文明6年)4月3日に細川政元が山名政豊(やまなまさとよ)と和睦すると応仁の乱が終息する兆しを見せ、1477年(文明9年)11月に西軍・東軍が陣を解いて終息しました。ただ応仁の乱終息後も祇園祭再興の動きは鈍かったようで、1493年(明応2年)の明応の政変により、細川政元が室町幕府10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)を追放し、足利義澄(あしかがよしずみ)を室町幕府11代将軍に擁立して室町幕府の実権を掌握すると幕府内で祇園祭再興の兆しが現れます。1496年(明応5年)に幕府が奉行人連署奉書により、左方大政所神主・宮千代に祇園祭の神輿造立を命じました。ただ1496年(明応5年)は神輿造立が進まず、翌1497年(明応6年)にも神輿造立を祇園執行に督促します。その後も八坂神社を支配する延暦寺(えんりゃくじ)とその守護神・日吉大社(ひよしたいしゃ)の影響もあり、1500年(明応9年)まで再興されませんでした。1500年(明応9年)に再興された祇園祭は近衛政家(このえまさいえ)が記した「後法興院記(ごほうこういんき)」から分かります。6月7日は「山廿五、鉾一」、6月14日は「山十外無鉾」と記され、6月7日の前祭に鉾が1基・山が25基、6月14日の後祭に鉾がなく、山が10基巡行しました。ちなみに応仁の乱前には前祭に32基、後祭に28基の山鉾があったと言われ、再興されなかった山鉾や再興が間に合わなかった山鉾もあったようです。なお細川政元は1501年(文亀元年)・1506年(永正3年)に祇園祭を見物した記録が残されています。
●細川政元は1466年(文正元年)に室町幕府管領・細川勝元の嫡男として生まれました。応仁の乱最中の1473年(文明5年)に父・細川勝元が病死すると僅か7歳で家督を相続し、分家の典厩家当主・細川政国が補佐しました。1474年(文明6年)に山名政豊と和睦し、応仁の乱が終息しました。1478年(文明10年)に元服し、室町幕府8代将軍・足利義政の偏諱を受け、細川政元と名乗りました。管領に任じられたが、室町幕府9代将軍・足利義尚の任大将拝賀の儀礼が終わると短期間で辞職しました。その後も度々短期間管領になりました。1489年(延徳元年)に足利義尚が六角討伐(長享・延徳の乱)中に近江国で病死すると次期将軍に足利義尚の従弟である天龍寺香厳院の清晃(足利義澄)を推挙するが、足利義尚の母・日野富子と畠山政長が後押した足利義尚の従弟・足利義稙が室町幕府10代将軍になり、室町幕府と距離を置きました。1493年(明応2年)に足利義稙が畠山政長とともに畠山義豊討伐の為に河内国に出兵すると日野富子・伊勢貞宗らとともに足利義稙を追放し、足利義澄を室町幕府11代将軍に擁立し、管領として室町幕府の実権を掌握しました。越中国に亡命し、挙兵した足利義稙に味方した比叡山を焼き討ちしたり、畿内に出兵したりして細川京兆家の全盛期を築き、細川政元は室町幕府の事実上の最高権力者として、「半将軍」とも言われました。細川政元は修験道に凝って妻帯しなかった為、九条政基の子・細川澄之と細川成之の孫・細川澄元、また細川野州家の細川高国を養子にしたが、細川澄之・細川澄元の間で家督争いが起こり、自邸での入浴中に細川澄之方によって暗殺されました。細川澄之の補佐役・香西元長が首謀者とも言われています。細川政元は1507年(永正4年)8月1日に亡くなりました。
●応仁の乱(応仁・文明の乱)は室町時代(1336年~1573年)中期に起こった足利将軍の継嗣問題と畠山氏・斯波氏の家督争いが原因で起こりました。足利将軍の継嗣問題は室町幕府8代将軍・足利義政に嗣子がなく、1464年(寛正5年)に足利義政の弟で、浄土院門跡・義尋を足利義視として還俗させて次期将軍にしようとしたが、翌1465年(寛正6年)に足利義政の夫人・日野富子が嗣子・義尚を生むと継嗣問題が起こりました。畠山氏の家督争いは畠山政長・畠山義就兄弟による争いで、足利義政は畠山政長を助け、細川勝元も味方したが、山名宗全が奈良に逃れた畠山義就を京都に向かい入れて対立しました。斯波氏の家督争いは斯波氏に子がなく、一族の斯波義敏を後継者としたが、家宰らが斯波義敏を廃して斯波義廉を後継者にするように奏して許されたが、斯波義廉が山名宗全の女婿であったことから再び斯波義敏を擁立する策謀があって対立しました。
【室町幕府管領・細川政元と祇園祭 備考】
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