遣明使(けんみんし)・明使節(みんしせつ)と祇園祭
遣明使・明使節と祇園祭
室町幕府3代将軍・足利義満は1392年(元中9年・明徳3年)の南北朝合一後に明(中国)との通交を試み、1401年(応永8年)に正使の僧・祖阿や博多の商人・肥富らを遣明使として派遣し、明に国書を送りました。室町幕府は外交(対外関係)を担い、明使節が京都を訪れた際に祇園祭を見物できるように手配したりしました。
【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【遣明使(けんみんし)・明使節(みんしせつ)】
室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は1392年(元中9年・明徳3年)の南北朝合一後に明(中国)との通交を試み、1401年(応永8年)に正使の僧・祖阿(同朋衆)や博多の商人・肥富らを遣明使として派遣し、明に国書を送りました。国書は東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが)が作成しました。1402年(応永9年)に足利義満が永楽帝から日本国王に封じられ、大統暦が贈られました。1404年(応永11年)から日明貿易(勘合貿易)が開始されました。室町幕府は外交(対外関係)を担い、明使節が京都を訪れた際には祇園祭を見物できるように手配したりしました。
「南都真言院伝法灌頂記(なんとしんごんいんでんぽうかんちょうき)」1404年(応永11年)6月8日の条に「八日、戊寅、祇園会(祇園祭)、異国官人(明使節)等見物、昨日依降雨、今日執□之、」と記され、明使節が祇園祭を見物したことが分かります。祇園祭は6月7日に行われる予定だったが、雨の為に翌8日に延期され、その日に明使節が見物しました。足利義満は堅中圭密らを遣明使として明(中国)に派遣し、その帰国に合わせて、1403年(永楽元年)に永楽帝が左通政・趙居任、行人・張洪らの明使節(唐使)を日本に派遣しました。「南都真言院伝法灌頂記」1404年(応永11年)4月27日の条に「御所(足利義満)様兵庫御成云々」と記され、4月27日に足利義満が兵庫に下向し、その後5月7日に京都に戻りました。「南都真言院伝法灌頂記」1404年(応永11年)5月12日の条に「異国官人(明使節)并僧衆入、 奏音楽了」と記され、明使節が僧衆とともに音楽を奏でながら京都に入りました。「南都真言院伝法灌頂記」1404年(応永11年)5月16日の条に「異国官人(明使節)并僧衆参北山殿、諸卿卅余人、僧正五人参集」と記され、足利義満と明使節が金閣寺(きんかくじ)の前身である北山殿(きたやまどの)で会見したことが分かります。公卿30余人と僧正5人が参集しました。足利義満は1394年(応永元年)に将軍職を子で、室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)に譲ったが、その後も実権を手放さず、北山殿に政治の中枢を集約されて政務を執り行っていました。
伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう)の「看聞日記(かんもんにっき)」1434年(永享6年)6月7日の条に「祇園会(祇園祭)結構唐人(明使節)被見、棧敷一色(義貫)用意云々、公方(足利義教)御棧敷京極(持高)如例、」と記され、室町幕府が遣明使とともに来日した明使節(唐使)に祇園祭を見物する桟敷を用意したことが分かります。ただ「看聞日記」1434年(永享6年)6月8日の条に「(庭田)重賢帰参、祇園会見物云々、唐人(明使節)見物無其儀、先例不吉之間、公方(足利義教)不被仰、而一色(義貫)棧敷用意、例之虚説比興也、公方ハ御見物云々、」と記され、明使節(唐使)は不吉という先例で、祇園祭を見物しなかったそうです。ただ室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が京極氏9代当主・京極持高(きょうごくもちたか)の宿所を訪れ、祇園祭を桟敷で見物しました。足利義教は龍室道淵らを遣明使として明(中国)に派遣し、その遣明使の帰国に同行し、明使・雷春らの明使節が来日しました。5月3日に壱岐島に到着し、5月22日頃に兵庫に到着し、足利義教も兵庫に下向にました。その後6月1日に明使節が京都に入り、同月5日に足利義教と明使節が花の御所とも言われた室町殿(むろまちどの)で対面しました。午後4時頃に輿にのった官人5人、騎馬・雑人など6、700人の明使節が室町殿を訪れ、大勢の見物人が集まりました。明使節は辛櫃五十合・鳥屋十籠・銭三十万貫などを献上しました。室町殿は北側の上立売通・南側の今出川通・東側の烏丸通・西側の室町通に囲まれ、敷地が御所の約2倍もあり、室町幕府が衰退するまで政治・文化の中心地でした。
●足利義満は1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮と側室・紀良子の間に生まれました。長男ではなかったが、嫡男として扱われました。南北朝の動乱から赤松氏6代当主・赤松則祐、室町幕府管領・斯波義将らに養育され、1366年(正平21年・貞治5年)に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜りました。1367年(正平22年・貞治6年)に父が亡くなると家督を継ぎ、1368年(正平23年・応安元年)に元服し、1369年(正平24年・応安2年)に征夷大将軍宣下を受けました。1378年(天授4年・永和4年)に邸宅を三条坊門から北小路室町に移して幕府の政庁とし、室町第(幕府)は花の御所と言われました。1382年(弘和2年・永徳2年)に相国寺の建立を開始しました。1392年(元中9年・明徳3年)に南北朝の合一を果たしました。1394年(応永元年)に将軍職を子・足利義持に譲ったが、その後も実権は手放さずに金閣寺の前身である北山殿で政務を執りました。1395年(応永2年)に出家し、「道義」と号しました。足利義満は北山文化を開花させました。なお足利義満は1408年(応永15年)5月31日に亡くなりました。
【遣明使・明使節と祇園祭 備考】
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祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)













