二の丸御殿(大広間・見学・庭園・唐門・・・)二条城見どころ

二条城二の丸御殿・二条城見どころ

二の丸御殿(大広間・見学・庭園・唐門・・・)

二の丸御殿を解説します。二の丸御殿では1603年(慶長8年)3月27日に徳川家康の将軍就任の祝賀の儀が行われました。二の丸御殿の大広間では1867年(慶応3年)に徳川慶喜が大政奉還の意思を表明し、見学の見どころになっています。大広間では大政奉還の様子を人形で表現し、奥中央の人形は江戸幕府15代将軍(最後)・徳川慶喜です。(詳細下記参照)

二条城見どころ(二の丸御殿・二の丸庭園など)

【二の丸御殿の概要・概略】

  • 概要・概略:二の丸御殿(にのまるごてん)は国宝に指定されています。二の丸御殿は東大手門の西側にあり、築地塀(つきぢべい)に囲まれていてます。二の丸御殿は建物面積約3,300平方メートルで、主要な建物6棟(遠侍及び車寄・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院)からなり、部屋は33室・畳は約800畳敷です。なお二の丸御殿は武家風(ぶけふうう)書院造(しょいんづくり)です。
  • 一体:二の丸御殿は唐門(重要文化財)・二の丸庭園(特別名勝)と一体となっています。なお二の丸御殿の遠侍北側には調理をする台所と配膳をする御清所もあります。
  • 見学:二の丸御殿では出入口の車寄から入り、遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の順に巡り、白書院で折り返して黒書院・蘇鉄の間・大広間・式台・遠侍の順に巡り、車寄から出ます。
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【二の丸御殿の歴史・時代】

  • 歴史・時代:二条城は江戸時代初期の1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康が京都所司代(きょうとしょしだい)・板倉勝重(いたくらかつしげ)を造営総奉行、大工棟梁・中井正清を作事に任命し、西国諸大名に費用と労務を割り当て、京都御所の守護と将軍の宿泊所として造営を開始しました。二の丸御殿は1602年(慶長7年)5月から造営が開始され、1603年(慶長8年)3月に完成しました。伏見城で将軍宣下を受けた徳川家康は二の丸御殿完成直後に二条城に入城し、3月27日に拝賀の礼・祝賀の儀を行いました。
  • 徳川家康:徳川家康は1543年(天文11年)に岡崎城主で、安城松平家8代当主・松平広忠の長男として生まれました。幼少期に織田氏・今川氏の人質として過ごし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つと岡崎に戻り、信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が自刀するとは豊臣秀吉と対立するが、その後和睦して秀吉の天下統一に協力します。小田原征伐後に秀吉の命によって関東への転封を命ぜられ、豊臣政権で最大の領地を得るとともに五大老筆頭になりました。1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍になりました。1605年(慶長10年)に徳川秀忠に将軍職を譲って大御所になり、1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。徳川家康は1616年(元和2年)になくなりました。
  • 出来事:二の丸御殿では1611年(慶長16年)に徳川家康と関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の会見(二条城会見)が行われ、その際徳川家康が豊臣秀頼の成長ぶりに驚き、豊臣家を滅ぼす決意をしたとも言われています。また二の丸御殿では1867年(慶応3年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が在京諸藩の重臣を大広間に集めて、大政奉還(たいせいほうかん)の意思を発表しました。なお二の丸御殿では明治維新後に京都府庁舎が置かれたり、陸軍省になったりしました。

【二の丸御殿の各施設(大広間・黒書院・鴬張りの廊下・・・)】

  • 各施設:二の丸御殿は車寄(くるまよせ)・遠侍(とおざむらい)・式台(しきだい)・大広間・蘇鉄の間(そてつのま)・黒書院(くろしょいん)・白書院(しろしょいん)が斜めに雁行形に配置され、廊下で繋がっています。廊下は総延長約450メートルにもなるそうです。
  • 車寄:車寄は玄関で、牛車(ぎっしゃ)で入れるようになっています。車寄は入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。なお車寄の欄間(らんま)には五羽の鸞鳥(らんちょう)などの彫刻があります。
  • 遠侍:遠侍は床面積約1,046平方メートルで、二の丸御殿内で最大の建物です。遠侍には勅使の間・一の間・二の間・三の間・柳の間(四の間)・若松の間・帳台の間・芙蓉の間・納戸があります。勅使の間では将軍が朝廷からの使者を迎え、勅使が上段に座って将軍が下段に座りました。また遠侍は大名の控え室としても使われました。遠侍は入母屋造の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。なお遠侍には「紙本金地著色楓檜桃小禽図(しほんきんじちゃくしょくかえでひのきももしょうきんず)」などの障壁画273面が描かれています。一の間・二の間・三の間には「竹林群虎図(ちくりんぐんとらず)」が描かれ、それぞれ虎の間とも言われています。
  • 式台:式台は床面積約332平方メートルで、老中の間(一の間・二の間・三の間)・式台の間があります。式台では老中が執務を行い、大名と対面して挨拶したり、将軍への献上品が取り次がれたりしました。式台は本瓦葺の入母屋造です。なお式台には「紙本金地著色松図(まつず)」などの障壁画62面が描かれています。障壁画は絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が描いたとも言われています。
  • 大広間:大広間は床面積約784平方メートルで、二の丸御殿内で最も格式の高い建物です。大広間には一の間・二の間・三の間・四の間・帳台の間・納戸があります。一の間(上段の間)・二の間(下段の間)は将軍が大名と対面する応接間、三の間は大名の控え室、四の間(鑓の間)は将軍が上洛した際に武器庫になりました。大広間は入母屋造の本瓦葺です。なお大広間には「紙本金地著色松竹錦鶴図(しょうちくきんかくず)」などの障壁画191面が描かれています。障壁画は絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が描いたとも言われています。
  • 蘇鉄の間:蘇鉄の間は大広間と黒書院を繋ぐ渡廊下状の建物です。蘇鉄の間は江戸時代に畳敷だったが、明治時代に板敷に変更されました。蘇鉄の間は入母屋造の本瓦葺です。なお蘇鉄の間の前には肥前鍋島藩藩主・鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が献上した蘇鉄があります。蘇鉄は樹齢150年以上と言われています。
  • 黒書院(小広間):黒書院は床面積約569平方メートルで、一の間(上段の間)・二の間・三の間・四の間・帳台の間があります。また横側に牡丹の間もあります。黒書院は将軍・親藩大名・譜代大名のみが入ることができ、内輪の謁見が行われました。黒書院は入母屋造の本瓦葺です。黒書院は幕末前までは小書院とも言われていました。なお黒書院には「紙本金地著色松桜柴垣禽鳥図(しょうおうしばがききんちょうず)」などの障壁画198面が描かれています。二の間には「桜花雉子図(おうかきじず)」・「楼閣山水図(ろうかくさんすいず)」、三の間には「浜松図」、四の間には「菊図」が描かれ、それぞれ桜の間・浜松の間・菊の間とも言われています。障壁画は絵師・狩野探幽の弟で、絵師・狩野尚信(かのうなおのぶ)が描いたとも言われています。
  • 白書院(御座の間):白書院は床面積約318平方メートルで、上段の間(一の間・寝室)・二の間・三の間・四の間・帳台の間があります。傍には付属の間もあります。白書院は将軍の居間・寝室で、将軍とおつきの女性のみが入ることができました。その為御座の間とも言われています。白書院は入母屋造の本瓦葺です。なお白書院には「紙本淡彩西湖図」などの障壁画230面が描かれています。三の間には「山水人物図」、四の間には「雪中梅竹柳小禽図」が描かれ、それぞれ山水の間・眠り雀の間とも言われています。障壁画は絵師・狩野興以(かのうこうい)が描いたとも、絵師・狩野長信(かのうながのぶ)が描いたとも言われています。
  • 鴬張りの廊下:廊下は外部からの侵入者が音で分かるように歩くと鴬(うぐいす)が鳴くような音が出るように造られ、鴬張りの廊下(うぐいすばりのろうか)と言われています。廊下には床板とそれを支える根太に2個の釘穴がある目かすがい(鎹)と言われる特殊な金具が使われ、床板の上を歩くと目かすがいが上下して釘と擦れ合い、鴬が鳴くような音がします。
  • 障壁画:二の丸御殿の障壁画は絵師・狩野探幽・尚信・興以・長信・山楽・甚之丞ら狩野派の絵師が描きました。障壁画は1603年(慶長8年)・1626年(寛永3年)などに大規模に描かれたとも言われています。なお二条城にある合計1,016面の障壁画は1982年(昭和57年)6月5日に重要文化財に指定され、2005年(平成17年)に二条城の障壁画を収蔵・展示する展示収蔵館が開館し、ガラス越しに鑑賞することができます。

【二の丸御殿と唐門(重要文化財)】

  • 唐門:唐門は重要文化財で、二の丸御殿の正門です。唐門は1624年(寛永元年)から1626年(寛永3年)に建てられました。唐門は1626年(寛永3年)に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が行幸した際、伏見城から移されたとも言われています。唐門は四脚門(よつあしもん)で、切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺です。なお唐門の冠木・梁の上には牡丹に蝶・龍虎・亀に乗る仙人などの極彩色の彫刻があります。
  • 旧唐門:旧唐門(国宝)は桃山時代に伏見城に造営されました。その後先ず伏見城から二条城に移築され、次に1627年(寛永4年)に江戸幕府の参与で、南禅寺270世・金地院崇伝(以心崇伝)が江戸幕府から譲り受け、南禅寺の塔頭・金地院に移築し、明治維新後の豊国神社再興の際に金地院から豊国神社に移築されました。

【二の丸御殿と二の丸庭園(特別名勝)】

  • 二の丸庭園:二の丸庭園は特別名勝で、桃山様式の泉回遊式庭園(書院造庭園)です。二の丸庭園は1602年(慶長7年)から1603年(慶長8年)頃に大名で、茶人・建築家・作庭家である小堀遠州(こぼりえんしゅう・小堀政一(こぼりまさかず))が作庭したと言われています。その後1626年(寛永3年)の後水尾天皇の行幸の際、一部が改修されたとも言われています。また江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代(1716年(享保元年)~1745年(延享2年))にも改修されたとも言われています。
  • 改修:二の丸庭園には後水尾天皇の行幸の際、行幸御殿が造営されました。行幸御殿から見た第1正面、二の丸御殿の大広間から見た第2正面、二の丸御殿の黒書院から見た第3正面という三正面式に改修され、視点が複数あることから八陣の庭とも言われました。二の丸庭園の池には3つの島(蓬莱島・亀島・鶴島)があります。亀島・鶴島はどの角度からも鶴と亀に見えるように石組みがされています。
  • 行幸:1626年(寛永3年)9月に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠、江戸幕府3代将軍・徳川家光が江戸から上洛した際、後水尾天皇と中宮・徳川和子が招きに応じて二条城に行幸し、9月6日(新暦の10月25日)から5日間滞在して、舞楽・能楽・乗馬・蹴鞠・和歌などを楽しみました。

【二の丸御殿 備考】
*参考・・・ 二条城(見どころ・歴史・二の丸御殿・・・)ホームページ

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