葵祭祭儀2026(路頭の儀・社頭の儀・宮中の儀)

葵祭祭儀(路頭の儀・社頭の儀・宮中の儀)
葵祭祭儀を紹介しています。葵祭ではかつて宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀が行われていました。しかし明治維新後の東京遷都により、京都御所に天皇が不在となった為に1869年(明治2年)から宮中の儀は行われなくなりました。路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などが巡行し、時代絵巻・王朝絵巻が繰り広げられます。
★葵祭の最新情報
【葵祭2026日程(要確認)】
葵祭2026・路頭の儀は2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日(土曜日)に順延されます。ちなみに途中降雨の場合、巡行が打ち切られる場合があります。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
【葵祭 基礎知識】
葵祭(あおいまつり)はかつて賀茂社と言われた上賀茂神社・下鴨神社の祭礼で、正式には賀茂祭(かもまつり)と言います。賀茂祭(葵祭)はどんな祭りかと言うと祭儀に関わる全ての人や社殿の御簾(みす)・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることが特徴で、葵祭と言われています。葵祭はいつから始まったかと言うと第29代・欽明天皇(きんめいてんのう)の時代(539年~571年)とも言われています。京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りが行われました。願いが叶って、風雨はおさまり、五穀が豊かに実り、国民が安泰になったと言われています。葵祭とは簡単に言うと五穀豊穣・国家安泰などの意味があります。
葵祭歴史年表
【葵祭祭儀 簡単概要】
葵祭では江戸時代まで宮中の儀(きゅうちゅうのぎ)・路頭の儀(ろとうのぎ)・社頭の儀(しゃとうのぎ)が行われていました。しかし明治維新後の東京遷都により、京都御所に天皇が不在となったことから宮中の儀は1869年(明治2年)から行われなくなりました。なお葵祭は平安時代の819年(弘仁10年)に天皇の即位後に初めて行われる新嘗祭(にいなめさい)で、一世一代の大礼とも言われる大嘗祭(だいじょうさい)の大祀に次ぐ中祀とされ、貞観年間(859年~876年)に勅祭としての儀式次第が定められました。ちなみに中祀とされたのは神社の中で葵祭と伊勢神宮の祭礼だけです。
●宮中の儀では天皇が勅使(ちょくし)に天皇のお言葉が書かれた紅紙の祭文(さいもん)・幣物(へいもつ)などを授けました。ちなみに祭文は下鴨神社・上賀茂神社合わせて一通で、下鴨神社・上賀茂神社での社頭の儀終了後、上賀茂神社に納められます。
●路頭の儀では祭文の奏上・幣物の奉納などの為、勅使などが行列を組んで、京都御所から下鴨神社・上賀茂神社に向かいます。現在、路頭の儀は人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁など長さ約1キロにもなります。ちなみに本列は乗尻・検非違使志・検非違使尉・山城使・御幣櫃・内蔵寮史生・馬寮使・牛車・御馬・和琴・舞人・陪従・内蔵使・勅使・牽馬・風流傘・風流傘、斎王代列は命婦・女嬬・斎王代・騎女・蔵人所陪従・牛車・命婦などで構成されています。なお路頭の儀に先だって、京都御所の御車寄(おくるまよせ)で進発の儀(しんぱつのぎ)、建礼門(けんれいもん)の南側で列見の儀(れけんのぎ)が行われます。
●社頭の儀では勅使が下鴨神社・上賀茂神社の祭神に祭文を奏上し、幣物を奉納します。神職は祭文・幣物を受け取って神前に献じ、神宣(しんせん)・返祝詞(かえしのりと)を返します。勅使は二葉葵と桂の枝葉を組み合わせた葵桂(あおいかつら)を授かって退出し、その後下鴨神社・上賀茂神社では饗宴の儀(きょうえんのぎ)・走馬の儀(そうめのぎ)も行われます。なお社頭の儀は少し前まで非公開で行われていました。
【葵祭の前儀・後儀】
葵祭では葵祭の前に前儀・後に後儀も行われています。上賀茂神社では賀茂競馬足汰式(かもくらべうまあしそろえしき)・賀茂競馬(かもくらべうま)・献茶祭(けんちゃさい)、下鴨神社では流鏑馬神事(やぶさめしんじ)・歩射神事(ぶしゃしんじ)・御蔭祭(みかげまつり)・煎茶献茶祭(せんちゃけんちゃさい)などが行われています。ちなみに斎王代以下女人列御禊神事(さいおうだいいかにょにんれつみそぎしんじ)は上賀茂神社・下鴨神社の交代制で行われています。
【平安時代の葵祭祭儀】
葵祭は平安時代(794年~1185年)中期の「延喜式(えんぎしき)」によると6日間にわたって行われていました。四月の中の巳(み)・中の午(うま)の日に御阿礼之儀(みあれのぎ)など上賀茂神社・下鴨神社など固有の祭儀が行われました。また山城国国司による乗馬騎射(きしゃ)などの陳設・臨検が行われました。四月の酉(とり)の日を中心に斎王が禊を行う斎院御禊(さいいんぎょけい・斎王御禊(さいおうごけい))・宮中の警護を命じる警固之儀(けいごのぎ)・勅使を派遣する宮中之儀・内裏から賀茂社まで巡行する路頭之儀・賀茂社に奉幣して祭文を奏上する社頭之儀・天皇幣(てんのうへい)・宣命奏上(せんみょうそうじょう)が行われました。また摂政または関白が賀茂社に参詣した摂関賀茂詣・内裏への帰還と報告を行う還立の儀・警護を解散する解陣の儀なども行われていました。葵祭では宮中之儀・路頭之儀・社頭之儀が旧暦の四月の中の酉の日に行われていたが、1873年(明治6年)の新暦移行に伴って、5月15日に行われるようになりました。なお「延喜式」は905年(延喜5年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の勅により、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)ら11名によって編纂が始まったが、順調に進まず、927年(延長5年)に太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)ら4名によって撰進され、その後も修訂が続けられ、967年(康保4年)に施行されました。
【葵祭祭儀 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭2026日程(路頭の儀・前儀・後儀・・・)