京都牡丹名所・見ごろ(建仁寺・乙訓寺・・・)

京都牡丹名所・見ごろ(見頃)
京都牡丹名所・見ごろ情報を紹介しています。京都には本満寺・建仁寺・乙訓寺・洞玄寺などの牡丹の名所があります。乙訓寺には牡丹園など境内一面に約30種・約2,000株の牡丹が植えられています。乙訓寺の牡丹は1934年(昭和9年)の室戸台風で松並木の松の多くが倒れ、牡丹の名所である奈良・長谷寺から牡丹2株が寄進されたのが始まりです。
【牡丹(ボタン) 基礎知識】
牡丹(ボタン)はボタン科ボタン属の落葉小低木です。牡丹は中国西北部が原産地で、古くに日本に伝わり、観賞用として庭に植えられています。また牡丹は根の樹皮が牡丹皮(ぼたんぴ)と称されて生薬としても利用されました。牡丹は原種が樹高約3メートルだが、園芸品種は樹高約1~2メートルです。牡丹は葉が大きくて羽状複葉で、花びらが5~8枚で、重弁や二段咲きなどの園芸品種があります。牡丹は例年4月頃から5月頃に赤色・赤紫色・紫色・薄紅色・白色・黄色などの大形の花が咲かせます。なお牡丹には春牡丹だけでなく、寒牡丹・冬牡丹もあります。
【本満寺 牡丹(ボタン)】
本満寺にはよく知られている枝垂桜周辺や本堂前、そして中庭に牡丹が植えられています。牡丹見ごろは例年4月中旬頃から5月上旬頃です。
本満寺は室町時代前期の1410年(応永17年)に関白・近衛道嗣の嫡子・玉洞妙院日秀が本圀寺(本国寺)から分立し、六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂)の一人である日持を崇敬開山として今出川新町に創建したのが起源と言われています。本満寺は当初広宣流布山本願満足寺と号しました。戦国時代の1536年(天文5年)の天文法華の乱によって焼失して堺に避難し、1539年(天文8年)に関白・近衛尚通の外護によって現在の場所に移って再建され、第105代・後奈良天皇の勅願所になったとも言われています。1708年(宝永5年)の宝永の大火などで度々焼失したが、1751年(宝暦元年)に江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈願し、以後将軍家の祈願所になりました。1788年(天明8年)の天明の大火でも焼失したが、その後再建されました。
本満寺牡丹見ごろ
【建仁寺 牡丹(ボタン)】
建仁寺には山門と方丈に挟まれた境内中央部に建立されている法堂(拈華堂)周辺に多種多様の牡丹が植えられています。牡丹見ごろは例年4月下旬頃から5月上旬頃です。
建仁寺は1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家が寺域を寄進し、臨済宗の開祖・栄西禅師が宋(中国)・百丈山を模して創建しました。建仁寺の名称は土御門天皇の勅許により、禅寺初の年号寺・建仁寺になりました。当初は真言・止観の二院を構え、天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。その後寛元年間(1243年~1247年)・康元年間(1256年~1257年)の火災などで荒廃し、1258年(正嘉元年)に東福寺を開山した聖一国師・円爾が再興しました。1262年(弘長2年)に宋からの渡来僧禅・蘭渓道隆が入寺して禅の道場に改め、室町時代に京都五山の第3位に列せられました。その後天正年間(1573年~1592年)に武将・外交僧である安国寺恵瓊が方丈・仏殿を移築して再建し、江戸時代に江戸幕府の保護によって伽藍が再建されました。
建仁寺牡丹見ごろ
【乙訓寺 牡丹(ボタン)】
乙訓寺には牡丹園など境内一面に約30種・約2,000株の牡丹が植えられています。牡丹見ごろは例年4月下旬頃から5月上旬頃です。
乙訓寺は寺伝によると古墳時代の第26代・継体天皇の宮跡とも言われています。また寺伝によると603年(推古天皇11年)頃に用明天皇の第2皇子・聖徳太子が推古天皇の勅願によって創建したとも言われています。発掘調査により、784年(延暦3年)の長岡京造営以前の奈良時代に創建され、設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われたと言われています。784年(延暦3年)に桓武天皇が長岡京を造営した際、都の地鎮として大規模に増築されました。その後弘法大師・空海が一時別当として在住し、伝教大師・最澄が空海を訪れと言われています。897年(寛平9年)に譲位した宇多上皇が乙訓寺を行宮として堂塔を整備し、法皇寺と号したと言われています。室町時代以降に衰退し、江戸時代に隆光が江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の援助によって再興しました。
乙訓寺牡丹見ごろ
【洞玄寺 牡丹(ボタン)】
洞玄寺にはボタン園に約50種・約250株の牡丹が植えられています。牡丹見ごろは例年4月下旬頃から5月上旬頃です。
洞玄寺は「洞玄寺縁起書」に「天文年中 大槻安芸守光頼 此地ニ城ヲ築キ居ル 弘治元卯乙六月十四日逝去」と記され、また洞玄寺3世・心宗禅明禅師が1739年(元文4年)に弟子・慧勤に編纂させた「寺記」によると戦国時代の天文年間(1532年~1555年)に安芸国から大槻安芸守政治がこの地に土着して館と城(石原城)を築き、その後隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、1555年(弘治元年)5月14日に亡くなると長らく廃墟になりました。その後石原の僧・華翁が寺院を建立し、大槻安芸守政治の法名「洞玄」に因んで、寺号を洞玄寺にしたと言われています。
洞玄寺牡丹見ごろ