本満寺牡丹見ごろ2024(4月中旬~5月上旬頃)

本満寺牡丹見ごろ(見頃)

本満寺牡丹見ごろ(時期・イベント等)を紹介しています。本満寺にはよく知られている枝垂桜周辺や本堂前、そして中庭に牡丹が植えられています。本満寺では春に先ず枝垂桜が見ごろを迎え、その後八重桜が咲いて散り始める頃に牡丹が咲き始まます。年によっては八重桜と牡丹が一緒に見られることもあります。(詳細下記参照)

【本満寺牡丹見ごろ(例年時期)】
本満寺の牡丹見ごろは例年4月中旬頃から5月上旬頃です。なお牡丹の見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都牡丹名所・見ごろ

【本満寺牡丹見ごろ アクセス(市バス)】
最寄りバス停・・・河原町今出川(徒歩約8分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から本満寺は4系統(A1乗り場)、17系統(A1乗り場)、205系統(A2乗り場)
*四条河原町からは3系統、17系統、205系統
*四条烏丸からは3系統、201系統、203系統
*河原町丸太町からは3系統
路線・時刻表・運賃チェック

*地下鉄烏丸線の場合、最寄り駅は今出川駅(徒歩約15分)
*京阪電鉄鴨東線の場合、最寄り駅は出町柳駅(徒歩約12分)

スポンサーリンク(Sponsor Link)

【本満寺牡丹見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
本満寺は牡丹の名所です。本満寺の牡丹見ごろは例年4月中旬頃から5月上旬頃です。なお本満寺は開山・玉洞妙院日秀(ぎょくどうみょういんにっしゅう)が関白で、近衛家10代当主・近衛道嗣(このえみちつぐ)の嫡子であることからここ最近から近衛家の家紋である牡丹(近衛牡丹)が境内に植えられています。
本満寺にはよく知られている枝垂桜(しだれざくら)周辺や本堂前、そして中庭に牡丹が植えられています。本満寺では春に先ず枝垂桜が見ごろを迎え、その後八重桜(やえざくら)が咲いて散り始める頃に牡丹が咲き始まます。年によっては八重桜と牡丹が一緒に見られることもあります。
近衛家は飛鳥時代から奈良時代初期に活躍した右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・藤原房前(ふじわらのふささき)を祖とする藤原北家(ふじわらほっけ)の嫡流で、太政大臣・藤原忠通(ふじわらただみち)の四男で、関白・近衛基実(このえもとざね)を家祖としています。近衛家は関白で、近衛家2代当主・近衛基通(このえもとみち)が京都近衛の北、室町の東の邸宅を近衛殿(このえどの)と称したことに由来しています。また平安京の近衛大路(このえのおおじ)にも由来しています。近衛家は九条家・二条家・一条家・鷹司家(たかつかさけ)とともに五摂家(ごせっけ)に数えられ、大納言(だいなごん)・右大臣・左大臣を経て、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)・太政大臣(だいじょうだいじん)に昇任できました。また五摂家は藤原氏一族全体の氏長者・藤氏長者(とうしのちょうじゃ)にも選出されました。ちなみに近衛家は安土桃山時代に羽柴秀吉(はしばひでよし・豊臣秀吉(とよとみひでよし))を猶子にしたこともありました。また近衛家18代当主・近衛信尹(このえのぶただ)には継嗣がなかったことから妹・近衛前子(このえさきこ)と第107代・後陽成天皇の間に生まれた第4皇子・近衛信尋(このえのぶひろ)を養子としたことから一条家・鷹司家とともに皇別摂家(こうべつせっけ)とも言われました。なお1884年(明治16年)の華族令(かぞくれい)の制定に伴って、近衞篤麿(このえあつまろ)が最上位の公爵(こうしゃく)に列しました。
牡丹はボタン科ボタン属の落葉小低木です。牡丹は中国西北部が原産地で、古くに日本に伝わり、観賞用として庭に植えられています。また牡丹は根の樹皮が牡丹皮(ぼたんぴ)と称されて生薬としても利用されました。牡丹は原種が樹高約3メートルだが、園芸品種は樹高約1~2メートルです。牡丹は葉が大きくて羽状複葉で、花びらが5~8枚で、重弁や二段咲きなどの園芸品種があります。牡丹は例年4月頃から5月頃に赤色・赤紫色・紫色・薄紅色・白色・黄色などの大形の花が咲かせます。なお牡丹には春牡丹だけでなく、寒牡丹・冬牡丹もあります。
枝垂桜は樹齢約90年で、円山公園内に植えられている祇園の枝垂桜の姉妹木です。

【本満寺 歴史・簡単概要】
本満寺(ほんまんじ)は室町時代前期の1410年(応永17年)に関白・近衛道嗣(このえみちつぐ)の嫡子・玉洞妙院日秀(ぎょくどうみょういんにっしゅう)が本圀寺(ほんこくじ・本国寺)から分立し、六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂)の一人である日持(にちじ)を崇敬開山として今出川新町に創建したのが起源と言われています。本満寺は当初広宣流布山本願満足寺(こうせんるふざんほんがんまんぞくじ)と号しました。戦国時代(室町時代後期)の1536年(天文5年)の天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)によって焼失して堺に避難し、1539年(天文8年)に関白・近衛尚通(このえひさみち)の外護によって現在の場所に移って再建され、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)の勅願所になったとも言われています。その後江戸時代中期の1708年(宝永5年)の宝永の大火などで度々焼失したが、1751年(宝暦元年)に江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の病気平癒を祈願し、以後将軍家の祈願所になりました。江戸時代後期の1788年(天明8年)の天明の大火でも焼失したが、その後再建されました。なお1911年(明治44年)に本堂が焼失し、1927年(昭和2年)に再建されました。
本満寺は日蓮宗の本山です。
*参考・・・本満寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

【本満寺牡丹見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
本満寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る