祇王寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

祇王寺の歴史を時代別年表にまとめ
祇王寺の歴史を簡単にまとめています。祇王寺は平安時代後期に浄土宗の宗祖・法然上人の門弟・念仏房良鎮が創建した浄土宗の往生院が起源とも言われています。往生院では子院・三宝寺も建立されたと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【大覚寺(だいかくじ)】
●大覚寺は平安時代(794年~1185年)初期に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子(たちばなのかちこ))との成婚の新室である離宮・嵯峨院(さがいん)を造営した場所でした。嵯峨院では真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が嵯峨天皇の勅願により、弘法大師・空海が自ら刻んだと言われる五大明王(ごだいみょうおう)を祀る持仏堂五覚院を建立して修法を行いました。大覚寺は876年(貞観18年)に嵯峨天皇の皇女で、第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇后・正子内親王(まさこないしんのう)が嵯峨天皇の孫で、淳和天皇の第2皇子・恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう・恒貞親王)を開山として離宮・嵯峨院を寺院に改めたのが起源です。第56代・清和天皇(せいわてんのう)から寺号「大覚寺」を賜ったと言われています。
【祇王寺の起源・始まり】
●祇王寺は平安時代後期に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の門弟・念仏房良鎮(ねんぶつぼうりょうちん)が創建した浄土宗の往生院(じょうじゅいん)が起源とも言われています。往生院では子院・三宝寺も建立されたと言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●平安時代後期に「平家物語(へいけものがたり)」・「源平盛衰記(げんぺいすうせいき)」によると平清盛(たいらのきよもり)は21歳の白拍子(しらびょうし)・祇王(ぎおう・妓王)を寵愛していたが、17歳の若い仏御前(ほとけごぜん)が現れると心変わりし、祇王は都を追われ、19歳の妹・祇女(ぎじょ)と45歳の母・刀自(とじ)とともに往生院に入寺して出家したと言われています。その後同じ運命と悟った仏御前も入寺し、4人で念仏三昧の余生を送ったという話が残されています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●1172年(承安2年)に祇王(妓王)が亡くなったとも言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●鎌倉時代以降に徐々に衰退したと言われています。
●鎌倉時代末期に祇王・祇女の木像が造られたとも言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1771年(明和8年)に住職・往生院法専尼(ほうせんに)が追悼碑「妓王妓女仏刀自之旧跡」を建立したと言われています。
●1814年(文化11年)に伊能忠敬(いのうただたか)が愛宕山(あたごやま)に参詣し、清滝・祇王寺などを測量したと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1868年(明治元年)に一時廃寺になり、旧地頭・大覚寺が残された墓や仏像を管理し、真言宗(しんごんしゅう)に改められました。大覚寺47世門跡・楠玉諦師(くすのきぎょくたい )が再建計画を立て、日本最後の文人と謳われる文人画家・富岡鉄斎(とみおかてっさい)らの尽力により、1895年(明治28年)に元京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)が別荘一棟を寄付し、寺院に改められて再興されました。寺号はこの地にゆかりがある祇王から祇王寺とされ、大覚寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)になりました。その後水薬師寺(みずやくしじ)の六条智鏡尼(眞照師)が住職を兼務しました。
●1902年(明治35年)に大覚寺から本尊・大日如来(だいにちにょらい)像や平清盛・祇王・祇女・刀自・仏御前の木像が移されたと言われています。
●1935年(昭和10年)からは東京・新橋の芸妓・照葉だった智照尼(高岡智照)が入寺して再興しました。
【祇王寺ゆかりの祇王】
祇王(妓王)は平安時代後期に平家の家人・江部九郎時久(江辺九郎時定)と刀自の娘として近江国(滋賀)祇王村に生まれたとも言われています。父が罪を犯して配流され、母とともに都に出て白拍子になり、その後平清盛に寵愛されたと言われています。西八条に屋敷を与えられ、母・妹を呼び寄せました。その後平清盛の心変わりで屋敷を追われ、往生院に出家しました。祇王は故郷が水不足に見舞われた際、平清盛に灌漑工事を願い出て、野洲川から掘られ、祇王井川と言われたと言われています。なお祇王(妓王)は1172年(承安2年)に亡くなったとも言われています。
【祇王寺の歴史 備考】
*参考・・・祇王寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ















