二条城・東本願寺散策コース(神泉苑・武信稲荷神社・・・)

二条城・東本願寺散策コース
二条城・東本願寺散策コースは世界遺産である二条城と国内最大級の御影堂がある東本願寺を結ぶ散策コースです。西側の二条城から東側の東本願寺までは距離が約4.2キロあり、徒歩で約50分掛かります。ただ二条城から東本願寺までは少し距離が長いが、あまり起伏がなく、思っているよりも楽に散策することができます。二条城・東本願寺散策コース周辺には祇園祭の起源と言われている御霊会が行われた神泉苑・坂本龍馬とおりょうが何度も訪れた武信稲荷神社・新選組の兵法調練場になった壬生寺・「京の三閣」に数えられる飛雲閣がある西本願寺・西本願寺とともに移った興正寺などがあります。二条城には二の丸御殿、西本願寺・東本願寺には御影堂など巨大な建築物があり、それらを巡るのがおすすめです。また武信稲荷神社は坂本龍馬、壬生寺・西本願寺は新選組にゆかりがあり、幕末の歴史を巡るのもおすすめです。
【二条城・東本願寺散策コース】
【二条城(にじょうじょう) 概要】
二条城は平安時代に禁苑だった神泉苑の一部で、内裏も造営された場所でした。1601年(慶長6年)に徳川家康が京都御所の守護・将軍の宿泊所として築城を開始し、1603年(慶長8年)に本丸御殿が完成しました。京都所司代・板倉勝重が造営総奉行、大工棟梁・中井正清が作事になって築城しました。家康は伏見城で将軍宣下を受け、その後二条城に入城し、重臣・公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行いました。1624年(寛永元年)に徳川家光が後水尾天皇の行幸の際に大規模な改修・増築を行い、1626年(寛永3年)に後水尾天皇と中宮・東福門院(徳川和子)が行幸して5日間滞在しました。1750年(寛延3年)に雷火で五層の天守が焼失し、1788年(天明8年)に天明の大火で本丸などが焼失しました。1863年(文久3年)に徳川家茂が約230年振りに二条城に入城しました。
二条城(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・二条城見どころ
【神泉苑(しんせんえん) 概要】
神泉苑は794年(延暦13年)の平安京遷都の際、大内裏の南に接する場所に造営された禁苑でした。禁苑は大池・泉・小川・小山・森林などを取り込んで造られ、主殿の乾臨閣・右閣・左閣・西釣台・東釣台・滝殿・後殿などの宮殿が造営されました。800年(延暦19年)に桓武天皇が行幸し、802年(延暦21年)に雅宴が催されたとも言われています。その後824年(天長元年)に弘法大師・空海が淳和天皇の勅命により、北印度の無熱池の善女龍王を勧請して祈雨を行ったと言われています。863年(貞観5年)に疫病が流行し、疫病を鎮める御霊会が行われました。869年(貞観11年)に行われた御霊会が祇園祭の起源と言われています。その後荒廃し、1603年(慶長8年)に徳川家康が二条城を築城した際、敷地の大部分が二条城に組み入れられ、規模が大きく減少しました。1788年(天明8年)に天明の大火で伽藍が焼失しました。
神泉苑(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【武信稲荷神社(たけのぶいなりじんじゃ) 概要】
武信稲荷神社は859年(貞観元年)に藤原良相が人々の健康長寿を願って創設した延命院と学問所である勧学院の守護神として創建したと言われています。その後藤原武信が篤く信仰し、神威の発揚に努めたことから武信稲荷と言われるようになりました。江戸時代後期に坂本龍馬と妻・おりょうが何度も訪れ、龍馬が榎に「龍」の字を彫ったと言われています。
武信稲荷神社(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【壬生寺(みぶでら) 概要】
壬生寺は991年(正暦2年)に園城寺(三井寺)の僧・快賢僧都が母の為に創建したと言われています。当初、小三井寺・地蔵院・宝幢三昧寺などと言われていました。平安時代に白河天皇から篤く信仰され、京都の裏鬼門に当たることから白河天皇の発願により、2月に節分会が行われるようになりました。その後火災で焼失し、1259年(正元元年)に平政平が再興し、1300年(正安2年)には融通念仏の円覚上人が京の三大狂言に数えられる大念仏狂言(壬生狂言)を始めたと言われています。1863年(文久3年)に新選組(壬生浪士組)が結成され、境内は新選組の兵法調練場として使われました。1962年(昭和37年)に本堂が全焼し、本尊・地蔵菩薩半跏像(壬生地蔵)も焼失しました。
壬生寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【西本願寺(にしほんがんじ) 概要】
西本願寺は1272年(文永9年)に親鸞聖人の末娘・覚信尼が東山鳥辺野北大谷の石塔に納められていた親鸞聖人の遺骨を改葬し、東山吉水北に六角の廟堂を建立して親鸞聖人の影像を安置したのが起源です。覚信尼は廟堂の守護をする留守職に就き、以後覚信尼の子孫が門弟の了承を得て就任しました。当初、専修寺と号していたが、延暦寺の抗議により、1321年(元亨元年)に寺号を本願寺に改めました。その後西本願寺は度々移り、1582年(天正10年)に関白・豊臣秀吉から大坂天満の土地を寄進されて移り、更に1591年(天正19年)に秀吉から京都堀川六条の土地を寄進されて移りました。
西本願寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・西本願寺見どころ
【興正寺(こうしょうじ) 概要】
興正寺は寺伝によると1211年(建暦元年)に承元の法難で越後に流罪となった親鸞聖人が勅免され、翌1212年(建暦2年)に京都に戻って山科に一宇を建立したのが起源とも言われています。寺号は順徳天皇が名付け、「正しき法を興し、さかえさす」という願いが込められています。その後東山の渋谷に移り、本尊・阿弥陀如来像が光明を放ったという霊験から後醍醐天皇から寺号・佛光寺を賜ったと言われています。室町時代に佛光寺14世・蓮教上人が本願寺8世・蓮如上人に帰依し、山科本願寺に隣接して興正寺を創建しました。その後興正寺は本願寺とともに度々移り、1569年(永禄12年)に顕如上人の次男・顕尊が入寺して本願寺の脇門跡に任ぜられました。1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉の命によって本願寺とともに現在の場所に移りました。
興正寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【東本願寺(ひがしほんがんじ) 概要】
東本願寺は1602年(慶長7年)に本願寺11世・顕如の長男・教如が徳川家康から寺地を寄進され、西本願寺の東に創建しました。教如は顕如の示寂によって本願寺を継承したが、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如とともに鷺森に退去した穏健派と対立し、関白・豊臣秀吉の怒りを買って退隠させられました。その後度々火災に見舞われ、「火出し本願寺」と揶揄されました。1864年(元治元年)に禁門の変(元治の大火)のどんどん焼けで焼失し、その後に再建されました。
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【二条城・東本願寺散策コース 備考】
散策コースではグーグルマップを使用して、スポットを紹介しています。