三十三間堂見所ランキング|蓮華王院本堂など人気スポット解説

三十三間堂見所ランキング|蓮華王院本堂・千手観音・南大門などの解説
三十三間堂は京都を代表する人気の観光名所です。このページでは観光や修学旅行で三十三間堂を訪れた際に絶対に見るべき蓮華王院本堂・千手観音・南大門などの魅力・歴史・構造・由来などを丁寧にまとめて解説します。見所ランキングは1位が蓮華王院本堂(国宝)、2位が千手観音坐像(国宝)と千手観音立像(国宝)、3位が南大門(重要文化財)、番外が通し矢です。(詳細下記参照)
【蓮華王院本堂(国宝)の見所紹介|後嵯峨上皇再建】
蓮華王院本堂は鎌倉時代中期に再建され、750年以上の歴史を誇り、国宝に指定されて歴史的価値があります。三十三間堂の象徴である蓮華王院本堂は南北約120メートル・奥行き約22メートル・高さ約16メートルの長大な堂宇で、人気の観光スポットです。蓮華王院本堂は本尊・千手観音(せんじゅかんのん)坐像(国宝)や1,000体の千手観音立像(国宝)などを安置し、静謐な空気に包まれています。蓮華王院本堂の名称は観音の王である千手観音の別称「蓮華王」に由来しています。蓮華王院本堂は1,000体の千手観音立像などを安置していることから何となく大きさを感じられるが、閉ざされた堂内では実際の大きさよりも小さく感じたりすることがあり、周囲を散策しながら外側から眺めるのがおすすめ。東側に庭園が整備され、西側では例年1月に通し矢(全国弓道大的大会)が行われ、南西には三十三間堂の鎮守社である久勢稲荷大明神が祀られています。外側からは写真映えする蓮華王院本堂を撮影できます。
●蓮華王院本堂は1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))が再建しました。京都洛中の中で千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)の本堂に次いで2番目に古い建物で、歴史的価値があります。京都では室町時代中期に応仁の乱が起こり、多くの建物が焼失したと言われています。室町時代中期に天台座主(てんだいざす)だった室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が屋根の葺き替えなど約5年を掛けて修復を行い、桃山時代(1583年~1603年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ)大仏殿を建立した際に修復を行いました。1649年(慶安2年)から1651年(慶安4年)頃に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の命によって修復が行われ、向拝(こうはい)が設けられました。1930年(昭和5年)の修理の際に極彩色の文様が現れ、かつて花や雲文様の極彩色だったことが分かりました。なお蓮華王院本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●蓮華王院本堂は和様(わよう)で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。向拝(こうはい)付きです。
●蓮華王院本堂は間面記法(けんめんきほう)で「三十三間四面」になることから三十三間堂の名称の由来になりました。三十三間とは堂内の柱間が33あることを意味しています。「三十三」は観音菩薩の変化身三十三身にゆかりがあります。観音菩薩は仏身・辟支仏身・声聞身・梵王身・帝釈身・自在天身・大自在天身・天大将軍身・毘沙門身・小王身・長者身・居士身・宰官身・婆羅門身・比丘身・比丘尼身・優婆塞身・優婆夷身・長者婦女身・居士婦女身・宰官婦女身・婆羅門婦女身・童男身・童女身・天身・龍身・夜叉身・乾闥婆身・阿修羅身・迦楼羅身・緊那羅身・摩ご羅伽身・執金剛身に姿を変え、人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。蓮華王院本堂は観音信仰の中心地です。
【千手観音坐像(国宝)と千手観音立像(国宝)の見所紹介|本尊】
丈六の千手観音坐像は鎌倉時代中期に造仏され、750年以上の歴史を誇り、国宝に指定されて歴史的価値があります。1,001体の千手観音立像は平安時代から室町時代に造仏され、国宝に指定されて歴史的価値があります。千手観音坐像と千手観音立像は日本を代表する仏像群で、人気の観光スポットです。千手観音坐像は蓮華王院本堂の中心に安置され、1,000体の千手観音立像は本尊の左右にある10段の階段(北台・南台)に50体ずつ安置されています。(2×10×50=1,000)また本尊の背後に1,001体目の千手観音立像が安置されています。1,000体の千手観音立像は一体一体表情が異なり、「必ず会いたい人に似た像がある」とも言われ、尊顔をじっくり眺めるのがおすすめ。ただ三十三間堂は京都を代表する人気の観光名所で、観光客・修学旅行生が多かったり、千手観音立像の数が多かったりすることからじっくり眺めるのが難しいかもしれません。じっくり眺めるなら午前中がいいかもしれません。ちなみに会いたい人がいない場合、自分の顔に似た千手観音立像を探すのもいいかもしれません。なお1,000体の千手観音立像の内、3体が東京国立博物館、各1体が京都国立博物館・奈良国立博物館にそれぞれ寄託され、蓮華王院本堂には996体が安置されています。
●千手観音坐像は1254年(建長6年)に仏師・湛慶(たんけい)が造仏しました。84歳で亡くなった湛慶が亡くなる2年前に完成させました。湛慶は1,001体の千手観音立像の内、10号・20号・30号・40号・520号・530号・540号・550号・560号の9体も造仏し、蓮華王院本堂の最前列に安置されています。千手観音坐像は寄木造(よせぎづくり)です。なお蓮華王院本堂は現在北側から入堂するが、かつては南側から入堂した為、1,000体の千手観音立像は南側から北側へと番号が振られています。
●1,001体目の千手観音立像は124体が平安時代(794年~1185年)、876体が鎌倉時代(1185年~1333年)、1体が室町時代(1336年~1573年)に造仏されました。鎌倉時代には16年掛けて造仏されたと言われ、鎌倉時代以降に造仏された約500体に仏師名が残され、奈良仏師(慶派(康円(こうえん)・行快(ぎょうかい)))、京都仏師(円派(隆円(りゅうえん)・昌円・栄円・勢円)、院派(院継・院遍・院承・院恵・院豪・院賀))の名工が動員されたと言われています。運慶の銘もあるが、後世の偽銘と言われています。1973年(昭和48年)から1年に数体~50体の修理が開始され、2017年(平成29年)に約45年に及ぶ修理が完了し、美しい姿に蘇りました。2018年(平成30年)に国宝指定を記念し、国立博物館に寄託されていた5体が三十三間堂に戻り、1,001体が勢ぞろいしました。千手観音立像は寄木造または割矧造(わりはぎづくり)で、像高が1.6メートル前後です。
●兵庫県・朝光寺の千手観音菩薩立像(重要文化財)は三十三間堂の千手観音菩薩立像(国宝)と様式が一致し、三十三間堂から移されたと言われています。
【南大門(重要文化財)の見所紹介|豊臣秀頼建立】
南大門は桃山時代に建立され、400年以上の歴史を誇り、重要文化財に指定されて歴史的価値があります。南大門は拝観エリア外にあることから見逃しやすい観光スポットです。南大門は境内南端に位置し、東西に走る塩小路通(しおこうじどおり)に面し、南北に走る道路が通っています。南大門は交通安全に気を付けながら間近で眺めるのがおすすめ。近付くと大きさを実感できます。なお三十三間堂は豊臣秀吉が南北約250メートル・東西約200メートルの方広寺大仏殿を建立した際、その寺域に取り込まれ、1596年(文禄5年)に慶長伏見地震で大仏などが倒壊し、その後豊臣秀頼(とよとみひでより)が復興を図りました。
●南大門は桃山時代(1583年~1603年)に豊臣秀吉が建立したと言われていたが、虹梁(こうりょう)の刻銘(こくめい)から1600年(慶長5年)に豊臣秀頼が建立したと言われています。なお南大門は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●南大門は三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(はっきゃくもん)で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺です。
【通し矢の見所紹介|全国弓道大的大会】
通し矢は確証がないが、平安時代後期に起源があるとも言われ、850年以上の歴史があるとも言われています。通し矢(全国弓道大的大会)は初春の風物詩で、メディアに取り上げられる有名なイベントです。通し矢は例年1月中旬頃に蓮華王院本堂西側の特設射場で催され、20歳を迎えた約2千名の男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。2本の矢が全て的中した皆中者で決勝が行われます。通し矢が行われる日は拝観料が無料になり、通し矢を見物するのがおすすめ。ただ競技者やその家族、参拝者や見物客などがたくさん訪れ、見物するのは大変です。特に着物姿が絵になる女性競技者が射る時間帯は本当に大変です。
●通し矢は起源が明確ではありません。通し矢は桃山時代(1583年~1603年)には既に行われていたとも言われています。
●通し矢の名称は三十三間堂の軒下を通すことに由来しています。通し矢(全国弓道大的大会)は江戸時代(1603年~1868年)に各藩の弓術家が三十三間堂の軒下で矢を射った大矢数に因んだ行事です。
【三十三間堂見所ランキング完全ガイド 備考】
*参考・・・三十三間堂(見所・アクセス・・・)ホームページ
















