浄禅寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

浄禅寺

浄禅寺の歴史を時代別年表にまとめ

浄禅寺の歴史を簡単にまとめています。浄禅寺は寺伝によると1144年(天養元年)または1182年(寿永元年)に真言宗の僧・文覚上人が袈裟御前の菩提を弔う為に創建したと言われています。当初、知法庵と称したとも言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

浄禅寺(アクセス・歴史・・・)

【文覚上人(遠藤盛遠)】

●文覚上人(もんがくしょうにん)は「源平盛衰記(げんぺいすうせいき)」によると遠藤盛遠(えんどうもりとお)という鳥羽離宮(とばりきゅう)の北面の武士でした。遠藤盛遠は渡辺左衛門尉源渡(わたなべさえもんのじょうみなもとわたる)の妻・袈裟御前(けさごぜん)に横恋慕し、夫を殺して袈裟御前を自分のものにしようとしました。袈裟御前は一計を案じ、自ら夫の身代わりとなって遠藤盛遠に殺されます。そのことを知った遠藤盛遠は自らの罪を悔いて出家し、全国各地を巡って荒行をし、その後高雄・神護寺(じんごじ)を再興しました。なお文覚上人は袈裟御前の首を塚に埋めて恋塚と名付けたと言われています。

【浄禅寺の起源・始まり】

●浄禅寺は寺伝によると1144年(天養元年)または1182年(寿永元年)に真言宗(しんごんしゅう)の僧・文覚上人(もんがくしょうにん)が袈裟御前の菩提(ぼだい)を弔う為に創建したと言われています。当初、知法庵と称したとも言われています。

スポンサーリンク(Sponsor Link)

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●保元年間(1156年~1159年)に第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の勅命により、平清盛(たいらのきよもり)が西光法師(さいこうほうし)に命じ、都に通じる主要街道の入口に鳥羽地蔵(とばじぞう)を含む5体の地蔵尊を祀ったと言われています。なお6体の地蔵尊は平安時代前期に昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰(えんまのちょう)に仕えた公卿(くぎょう)・小野篁(おののたかむら)が一度亡くなって冥土(めいど)に行き、生身の地蔵尊(じぞうそん)を拝して蘇り、1本の桜から自ら刻んで大善寺(だいぜんじ)に祀られていたが、大善寺の伏見地蔵(ふしみじぞう)を除く、5体の地蔵尊が大善寺から移されることになりました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●鎌倉時代以降に浄土宗(じょうどしゅう)に改められ、寺号も浄禅寺に改めたとも言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1647年(正保4年)に山城国長岡藩藩主・永井日向守直清(ながいひゅうがのかみなおきよ)が林羅山(はやしらざん)に撰させ、袈裟御前の貞女を顕彰した碑を建立しました。
●1711年(正徳元年)に火災で焼失しました。
●天保年間(1830年~1844年)に本堂が再建されました。
●江戸時代末期に地蔵堂・観音堂が移されてきたとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●昭和(1926年~1989年)に現在の本堂が修築されたとも言われています。

【浄禅寺の開山である文覚上人】

文覚上人は1139年(保延5年)に摂津源氏傘下の武士団・渡辺党に属する左近将監・遠藤茂遠の子・遠藤盛遠として生まれました。第74代・鳥羽天皇の皇女・統子内親王(上西門院)に北面の武士として仕えていました。しかし同僚の渡辺左衛門尉源渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫の身代わりとなった袈裟御前を殺したことから19歳で出家しました。その後諸国を行脚して修行し、1168年(仁安3年)に崇敬する真言宗の宗祖である弘法大師・空海の旧跡である神護寺に住して再興に努めました。しかし神護寺再興を第77代・後白河天皇に強訴したことから伊豆国に配流されました。伊豆国では鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と知遇を得て挙兵を助け、鎌倉幕府の開府後に源頼朝の庇護を受けて神護寺を再興しました。また東寺・高野山・東大寺などの建物も修復しました。源頼朝の死後に三左衛門事件に連座して佐渡国に配流され、後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)に謀反の疑いを掛けられ、1203年(建仁3年)8月29日に対馬国に配流される途中の鎮西で亡くなりました。

【浄禅寺の歴史 備考】
*参考・・・浄禅寺(アクセス・歴史・・・)wiki

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る