山本泰順(やまもとたいじゅん)の「洛陽名所集」と五山送り火
山本泰順の「洛陽名所集」と五山送り火
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は江戸時代前期の1658年(万治元年)に漢学者・山本泰順が刊行した地誌「洛陽名所集」の「如意寶山(如意宝山)」の項目に記されています。
【五山送り火2025 日程】
五山送り火2025は2025年(令和7年)8月16日(土曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2025
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【山本泰順(やまもとたいじゅん)の「洛陽名所集(らくようめいしょしゅう)」】
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。ただ江戸時代(1603年~1868年)前期頃から文献に記されることが多くなり、夏の風物詩として見物した記録が残されています。江戸時代前期の1658年(万治元年)に漢学者・山本泰順が刊行した地誌「洛陽名所集・12巻12冊」の「如意寶山(にょいほうざん・如意宝山)」の項目に「そのかみより七月十六日の夜、四方の山に松明にて妙法大の三字、或いは船のなりなどをつくる事也、すなわち、大の字は青蓮院御門主の御筆なりとぞきこえき、年々のことながら、みる人道つたふことなり」と記され、如意寶山が日本ノ五岳に数えられ、洛中を囲む四方の山々に妙法・大文字・船形などが松明で灯されていることが分かります。また大文字の字は天台宗(てんだいしゅう)総本山比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の三門跡に数えられた青蓮院(しょうれんいん)門主の筆によることも記されています。ちなみに青蓮院は奈良時代(710年~794年)末期の788年(延暦7年)に天台宗の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が比叡山に延暦寺を創建した際、比叡山東塔の南谷に建てた僧侶の住坊のひとつである青蓮坊(しょうれんぼう)が起源と言われています。なお「洛陽名所集」は1669年(寛文9年)の山本泰順処刑から約10年で3度の再版や摺り増しが行われ、評価されて人気があったと言われています。
●「洛陽名所集」は1657年(明暦3年)に山本泰順が刊行した地誌です。1657年(明暦3年)に刊行された板屋仁兵衛版(板司仁兵衛尉幸之)が初版とされ、無刊記版・村上次郎右衛門版(村上次郎右衛門)・永楽屋七郎兵衛版(七吉兵衛)・吉田庄左衛門版・中野小左衛門版(洛陽中野小左衛門)などがあります。山本泰順は父・山本友我(やまもとゆうが)が金閣寺住持・鳳林承章(ほうりんじょうしょう)と交流関係があり、田原仁兵衛と知り合ったと言われています。「洛陽名所集」には「山城のうち、都のはしばし名にたてる所凡三百有余をあげ、或いは宮寺のもとつかた、人の由来伝ふるを考へ、しかもその所にながめおける代々の歌まで、たづねもとめ、しるし待りて、洛陽名所集となづけて、十二巻とせり」と記され、京都にある神社仏閣など300ヶ所余の名所が収録されています。
●山本泰順は江戸時代前期の1636年(寛永13年)に狩野派の絵師・山本友我(やまもとゆうが)の子として生まれました。山本泰順は尚勝・泰順・三径・内蔵助などと称しました。山本家は近江源氏を祖とし、近江国東浅井郡(滋賀県東北部)に住していました。山本若狭守利尚(やまもとわかさのかみとしなお)は山城国(京都)の岩倉などを領有し、山本若狭守利尚の孫で、山本泰順の祖父・山本富尚(やまもととみなお)の時代に浪人になったとも言われています。父・山本友我は35歳で上京し、禁裏絵師として活躍し、後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))らと広く交遊を持ち、1648年(慶安元年)に自作の屏風絵を後水尾上皇に献上して法橋(ほうきょう)の位が授けられました。山本泰順は漢学者を志し、冷泉為景(れいぜいためかげ)に師事して漢学・和歌などを学び、冷泉為景が自害する松永尺五の門人・宇都宮遯庵(うつのみやとんあん)を師事して漢学を学びました。1656年(明暦2年)に兵法書「古今軍林一徳鈔」を刊行し、1657年(明暦3年)に中国の漢詩を収録した「節序詩集」・「洛陽名所集」を刊行し、1668年(寛文8年)頃に最後の「四家絶句」を刊行しました。山本泰順は「武傭志」に訓点を施していることでも知られています。なお山本泰順は1669年(寛文9年)に父・山本友我が富家からの嫁入りを望み、婚礼資金の工面を迫られ、偽装した長崎糸荷を質入れしたとして、父とともに洛東粟田口で磔に処され、罪人として亡くなりました。
【山本泰順の「洛陽名所集」と五山送り火 備考】
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