鳳林承章(ほうりんじょうしょう)の「隔めい記」と五山送り火
鳳林承章の「隔めい記」と五山送り火
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。金閣寺近くの左大文字(万灯籠)について記されている文献には江戸時代前期に金閣寺(鹿苑寺)住持(住職)・鳳林承章が記した「隔めい記」があります。
【五山送り火2025 日程】
五山送り火2025は2025年(令和7年)8月16日(土曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2025
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【鳳林承章(ほうりんじょうしょう)の「隔めい記(かくめいき)」】
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は平安時代(794年~1185年)から室町時代(1336年~1573年)に始まったとも言われています。金閣寺近くの左大文字について記されている文献には金閣寺(きんかくじ・鹿苑寺(ろくおんじ))住持(住職)・鳳林承章が記した「隔めい記」があります。「隔めい記」1648年(慶安元年)7月17日の条に「当山の万灯籠を今夕行う。昨晩が大雨だったからである。明王に於いて六斎念仏が済み、不動に赴く。」と記され、7月16日が大雨だったことから延期され、翌7月17日に万灯籠(左大文字)が灯され、六斎念仏(ろくさいねんぶつ)が奉納されました。「隔めい記」1650年(慶安3年)7月16日の条に「今晩山上に登り万灯籠を見る。例年の如く不動に到り、冷麺を食べる。(略)毎年の如く山上大文字火を調える。(如毎年山上大文字火調之)石不動に於いて梵魯念仏がある。」と記され、左大文字山に登って万灯籠(左大文字)を見物し、梵魯念仏が奉納されました。「隔めい記」1654年(承応3年)7月16日の条に「今晩、山上に於いて諸方の送火を見る。」と記され、左大文字山に登って、諸方に灯されていた送り火を見物しました。「隔めい記」1656年(明暦2年)7月16日の条に「仙洞より御使いがある。今夕、万灯籠の御見物があるので、早々に御所に来るようにとのことだ。夕御膳も御相伴するよう心得て、参勤すべき旨承った。急ぎ剃髪して、急々に院参したところ、妙法院御門主堯然・聖護院御門主道晃法親王らがおられた。勧修寺大納言経広卿・岩倉中納言具起卿も召されている。(略)夕御膳御相伴済んで、御庭を歩み行き、各御供仕り、濃茶をいただく。各高屋に登り、四方山上の万灯籠を見物した。」と記され、後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))の御所に招かれて訪れると妙法院(みょうほういん)門主・堯然法親王(ぎょうねんほっしんのう)、聖護院(しょうごいん)門主・道晃法親王(どうこうほうしんのう)、勧修寺経広(かじゅうじつねひろ)、岩倉具起(いわくらともおき)らも招かれていました。夕食後に御所の高い建物に登り、四方の万灯籠を見物しました。なお「隔めい記」からは僧侶・上皇・皇族・貴族などが五山送り火(万灯籠)を見物していたことが分かります。
●「隔めい記」は金閣寺住持・鳳林承章が記した日記です。「隔めい記」は1635年(寛永12年)から1668年(寛文8年)までの33年間が記されています。「隔めい記」は金閣寺・相国寺に関することが中心に記されているが、後水尾天皇をはじめ、千宗旦・小堀遠州・金森宗和・片桐石州・野々村仁清・池坊専好・狩野守信・林羅山・本阿弥光甫、曽谷宗喝、糸屋十右衛門など茶人・絵師・陶工なども登場します。
●鳳林承章は桃山時代の1593年(文禄2年)2月23日に准大臣(じゅんだいじん)・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)と刑部卿(ぎょうぶきょう)兼陰陽頭(おんようのかみ)・土御門有脩(つちみかどありなが)の娘の間に生まれ、勧修寺晴豊の六男でした。兄弟には権大納言(ごんだいなごん)・勧修寺光豊(かじゅうじみつとよ)、蔵人頭(くろうどのとう)・甘露寺経遠(かんろじつねとお)、参議(さんぎ)・坊城俊昌(ぼうじょうとしまさ)、右京亮(うきょうのすけ)・阿部致康(あべおきやす)などがいます。鳳林承章は臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧になり、相国寺(しょうこくじ)中興の祖・西笑承兌(せいしょうじょうたい)の法を嗣ぎ、その後金閣寺の住持(住職)になりました。江戸時代前期の1625年(寛永2年)に臨済宗相国寺派大本山・相国寺に入寺し、相国寺95世になりました。後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))が出家する際に唄師(ばいし)を務め、その後も後水尾上皇と親交を深めました。鳳林承章は1635年(寛永12年)から日記「隔めい記(かくめいき)」を記しました。なお鳳林承章は江戸時代前期の1668年(寛文8年)9月30日に亡くなりました。
【鳳林承章の「隔めい記」と五山送り火 備考】
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