清水寺の見所ランキング-修学旅行・観光で見学必見
清水寺の見所は清水の舞台・音羽の滝・三重塔・奥の院です。
清水寺の見所ランキングを紹介します。見所は1位が「清水の舞台から飛び降りる」で知られる舞台がある本堂(国宝)、2位が寺号「清水寺」の由来になった音羽の滝、3位が密教の世界が広がる三重塔(重要文化財)です。なお国宝・重要文化財など修学旅行・観光で見るべき名所を紹介しています。(詳細下記参照)
- 1位-徳川家光の寄進で再建され、400年近い歴史がある本堂(国宝)
- 2位-1,200年以上一度も枯れたことがないと言われる音羽の滝
- 3位-1632年に再建され、400年近い歴史がある三重塔(重要文化財)
- 番外-1633年に再建され、400年近い歴史がある奥の院(重要文化財)
【徳川家光の寄進で再建され、400年近い歴史がある本堂(国宝)】
清水の舞台(本堂)は江戸時代(1603年~1868年)前期に江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進によって再建され、その後焼失などを免れたことから400年近い歴史があります。本堂・清水の舞台は清水寺最大の名所です。なお本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。
- 本堂の概略-清水の舞台は本堂の一部で、「清水の舞台から飛び降りる」で知られています。清水の舞台は懸造(かけづくり)・舞台造であることから清水の舞台の上に立つと下を見下ろす以外に建築構造を見ることができません。ただ清水の舞台は高さが約13メートルもあり、上から下を見下ろすのは危険です。そこで順路で巡り、奥の院・子安塔・音羽の滝付近から眺めるのがおすすめです。奥の院は清水の舞台(本堂)を眺める絶好の場所で、西側に広がる京都市街地も眺めることができます。ただ懸造・舞台造はよく見えません。子安塔からは少し距離が遠いが、清水の舞台が標高約242.5メートルの音羽山(清水山)中腹に建立されていることが分かります。音羽の滝付近から清水の舞台を見上げると懸造・舞台造の建築構造やその高さが分かります。特に広葉樹が落葉した晩秋から冬季にはよく分かります。清水の舞台は七不思議に数えられています。
- 本堂の歴史-清水の舞台(本堂)は江戸時代(1603年~1868年)前期の1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって再建されました。南東の欄干宝珠(らんかんほうじゅ)には「寛永拾癸酉歳十一月吉日」と刻まれています。ちなみに清水の舞台がいつ頃から造られるようになったかは定かではありません。蹴聖・藤原成通(ふじわらのなりみち)の日記「成通卿口伝日記・12世紀(平安時代後期~鎌倉時代初期)成立」に記されているのが文献上の初見と言われています。
- 本堂の重要人物-徳川家光は1604年(慶長9年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の次男として生まれました。病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に父母に寵愛される弟・忠長(ただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こりました。乳母・春日局(かすがのつぼね)が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に直訴して世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、1623年(元和9年)に父とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になりました。武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立し、「武断政治」と言われました。なお徳川家光は1651年(慶安4年)に亡くなりました。
- 本堂の構造-本堂は寝殿造(しんでんづくり)の趣を伝えています。本堂は寄棟造(よせむねづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。清水の舞台・本堂は崖に堂塔を建築する懸造とも、舞台造とも言われる特殊な構造です。清水の舞台は139本のケヤキ(欅)の木を1本も釘を使わない地獄止めによって組み上げられています。清水の舞台は高さ約13メートルで、正面約18メートル・側面約10メートルの面積約190平方メートルです。ちなみにケヤキの木は耐用年数が800年~1,000年あると言われています。
- 本堂の仏像-本堂は内々陣に本尊・十一面千手観音立像を安置し、清水の舞台では本尊に雅楽(ががく)などの芸能を奉納していました。現在も8月のお盆の頃に六斎念仏(ろくさいねんぶつ)が清水の舞台で奉納されることがあります。ちなみに観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。
- 本堂の記録-「清水の舞台から飛び降りる」という言葉があるように江戸時代(1603年~1868年)に235件の投身があったと言われています。
- 本堂の豆知識-清水の舞台の入口付近には室町時代(1336年~1573年)に造られた像高約113センチ・重さ約310キロの大黒天像(出世大黒)や七不思議に数えられている弁慶の鉄の下駄(げた)と錫杖(しゃくじょう)が置かれています。鉄の下駄は片方が約12キロあります。大錫杖は長さ約2.6メートル・重さ約96キロ、小錫杖は長さ約1.7メートル 重さ約17キロあります。ちなみに本堂裏側にある深さ2センチほどの直線状の溝は弁慶の指跡と言われ、七不思議に数えられています。鉄の下駄と錫杖は音羽の滝の行者が満願成就の御礼に納めたと言われています。また弁慶の指跡はお百度参りをする参拝者が壁をつたって歩いた時にできた痕跡と言われています。なお弁慶と牛若丸は五条大橋で出会って決闘したと言われているが、五条天神社で出会い、翌日清水観音(清水寺)で決闘したとも言われています。
【1,200年以上一度も枯れたことがないと言われる音羽の滝】
音羽の滝は奈良時代(710年~794年)後期の清水寺創建以来、1,200年以上一度も枯れたことがないと言われています。音羽の滝は四季を通じ、湧水量はほぼ一定しています。
- 音羽の滝の概略-清水寺は人気の観光スポットの為、季節・曜日・時間などにより、音羽の滝にもたくさんの観光客が並びます。その為音羽の滝の水を飲むのなら午前中のなるべく早い時間帯がおすすめです。清水寺は午前6時から拝観できます。(要確認)音羽の滝は標高約242.5メートルの音羽山(清水山)から湧き出し、四季による水量の増減がなく、奈良時代(710年~794年)後期の清水寺創建以来一度も涸れたことがないと言われています。音羽の滝は鴨川(かもがわ)の地下伏流水が東山断層の割目から噴出したものが水源とも言われ、音羽川の水源になっています。音羽の滝は七不思議に数えられています。
- 音羽の滝の歴史-音羽の滝では「清水寺縁起」によると長年滝行を行った行叡居士(ぎょうえいこじ)が200歳と記され、音羽の滝の清水はかつて長寿の延命水や菩薩さまの功徳水・心身を清める金色水など言われました。また「観音霊場記図会(かんのんれいじょうきずえ)」には「中は利得、右は智慧、左は慈悲。観音の三体とす」と記されています。
- 音羽の滝の飲み方-音羽の滝は高さ約4メートの3本の筧(かけい)から水が流れ落ち、滝に向かって左には学問成就、中央には恋愛成就、右には延命長寿のご利益があると言われています。ただ正しい飲み方をしないとご利益が授かれなかったり、少なくなったりすると言われています。正しい飲み方は先ず滝の奥の祠(ほこら)に祀られている不動明王(ふどうみょうおう)にお参りし、次に3本の筧から1本を選び、不動明王を向かって願を念じながら一口だけ飲みます。欲張って何本も飲むとご利益が授かれなかったり、何口も飲むとご利益が何口分の1になったりすると言われています。柄杓(ひしゃく)を返す場合、3回丁寧に洗い流すことがおすすめされています。
- 音羽の滝の豆知識-音羽の滝は水が清らかだったことから清水寺の寺号が「清水寺」になりました。かつては「せいすいじ」とも読まれました。ちなみに清水寺は当初、北観音寺(きたかんのんじ)と言われていました。
- 音羽の滝の伝承-音羽の滝では絵師・狩野永徳(かのうえいとく)の次男・狩野元信(かのうもとのぶ)が地主神社(じしゅじんじゃ)の拝殿(重要文化財)の鏡天井に雲龍図・丸竜を描き、その丸竜が夜ごと抜け出し、音羽の滝の水を飲むことから目に釘を打たれたとも言われ、七不思議に数えられています。
- 音羽の滝の行事-音羽の滝では祠に不動明王が祀られ、毎月28日の不動明王の縁日には午前6時から燈明(とうみょう)が供えられ、午前7時から僧侶が読経を行っています。音羽の滝近くには茶店・瀧の屋があり、お茶の接待も行っているそうです。(要確認)
【1632年(寛永9年)に再建され、400年近い歴史がある三重塔(重要文化財)】
三重塔は清水の舞台(本堂)と同時期の江戸時代(1603年~1868年)前期に再建され、その後焼失などを免れたことから400年近い歴史があります。なお三重塔は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。
- 三重塔の概略-三重塔は高さが約31メートルもあることから山内の多くの場所から眺めることができます。奥の院から清水の舞台(本堂)越しに眺めたり、子安塔から遠景を楽しんだりするもいいかもしれません。また三重塔は京都市内からも遠くに見ることができ、古くからランドマークです。三重塔は内部に神秘的な密教の世界が広がっているが、通常見ることはできません。
- 三重塔の歴史-三重塔は江戸時代(1603年~1868年)前期の1632年(寛永9年)に再建されました。ちなみに三重塔は平安時代(794年~1185年)前期の847年(承和14年)に清水寺創建の大本願・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の孫で、第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の第12皇子・葛井親王(ふじいしんのう)が創建したとも言われています。
- 三重塔の構造-三重塔は高さ約31メートルの赤い総丹塗り(にぬり)で、本瓦葺です。三重塔は東南の鬼瓦が水神の龍で、七不思議に数えられています。
- 三重塔の仏像-三重塔は東向きに真言密教(しんごんみっきょう)の教主・大日如来(だいにちにょらい)像を安置しています。一層の壁に真言宗(しんごんしゅう)の法系を示す真言八祖(しんごんはっそ)像、天井や柱などには密教仏画や飛天・龍などが極彩色で描かれています。
【1633年(寛永10年)に再建され、400年近い歴史がある奥の院(重要文化財)】
奥の院は清水の舞台(本堂)と同じ年に再建され、その後焼失などを免れたことから400年近い歴史があります。なお奥の院は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。
- 奥の院の概略-奥の院は音羽の滝の真上に建立されています。奥の院は高さが約12メートルあることから清水の舞台と同じように上から下を見下ろすのは危険です。清水の舞台(本堂)から眺めたり、音羽の滝付近から見上げたりするのがおすすめです。奥の院は開山・行叡居士と開基・延鎮上人の草庵跡と言われています。奥の院からは美しい清水の舞台・本堂を眺めることができ、奥の院は清水の舞台(本堂)を写真撮影する絶好の撮影場所になっています。春の桜シーズンや秋の紅葉シーズンには桜や紅葉に彩られた清水の舞台(本堂)を撮影することができます。また桜ライトアップ・紅葉ライトアップの時期には幻想的・神秘的な光景も撮影することができます。
- 奥の院の歴史-奥の院は江戸時代(1603年~1868年)前期の1633年(寛永10年)に再建されました。欄干宝珠には「寛永拾癸酉歳十一月吉日」と刻まれています。
- 奥の院の構造-奥の院は寄棟造の檜皮葺です。奥の院は清水の舞台(本堂)と同じ懸造・舞台造です。奥の院は高さ約12メートルで、正面約12メートル・側面約8メートルと言われています。なお奥の院は南端に夜叉神堂が建立されています。夜叉神は本堂に安置されている本尊・十一面千手観音立像とその化身である青龍の地を守り、人々の悪縁を断ち、良縁を結ぶ神とされています。
- 奥の院の仏像-奥の院は三面千手観音坐像・毘沙門天・地蔵菩薩・風神(ふうじん)・雷神(らいじん)・千手観音の眷属(けんぞく)である二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)などを安置しています。また奥の院はかつて法相宗(ほっそしゅう)に加えて真言宗も兼学だったことから真言庵とも言われ、真言宗の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)坐像も祀っています。
- 奥の院の豆知識-奥の院にはふれ愛観音も安置され、撫でるとご利益を授かることができると言われています。
【清水寺 備考】
*参考・・・清水寺(見所・アクセス・・・)ホームページ