粟田神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

粟田神社

粟田神社の歴史を時代別年表にまとめ

粟田神社の歴史を簡単にまとめています。粟田神社は876年(貞観18年)に清和天皇が勅を発し、全国の諸神を祀って国家と国民の安全を祈願させた際、大己貴神からの神告により、八坂神社の牛頭天王にゆかりがある現在の場所に祀られたのが起源です。(時代別年表・重要人物下記参照)

粟田神社(アクセス・歴史・・・)

【八坂神社】

●八坂神社(やさかじんじゃ)は656年(斉明天皇2年)に高麗(こうらい)から来日した調進副使(ちょうしんふくし)・伊利之使主(いりしおみ)が新羅(しらぎ)国・牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのおのみこと・牛頭天王(ごずてんのう))を山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に祀ったのが起源とも言われています。また八坂神社は876年(貞観18年)に南都の僧・円如(えんにょ)がお堂を建立し、薬師如来(やくしにょらい)像を祀り、同年に天神(てんじん・祇園神(ぎおんのかみ))が東山の麓である祇園林に降り立ったのが起源とも言われています。

【粟田神社の起源・始まり】

●粟田神社は第5代・孝昭天皇(こうしょうてんのう)の末裔で、奈良時代(710年~794年)から活躍し、この地を治めていた古代の豪族・粟田氏が氏神として祀ったのが起源とも言われています。
●粟田神社は876年(貞観18年)に第56代・清和天皇(せいわてんのう)が勅を発し、全国の諸神を祀って国家と国民の安全を祈願させた際、大己貴神(おおなむちのかみ)からの神告により、八坂神社の祭神・牛頭天王(素戔鳴尊)にゆかりがある現在の場所に祀られたのが起源と言われています。清和天皇は神祇官(じんぎかん)・陰陽寮(おんみょうりょう)から「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と奏上され、直ちに勅を発し、全国の諸神に祀って国家と民の安全を祈願しました。勅使として派遣された従五位上(じゅごいじょう)出羽守(でわのかみ)・藤原興世(ふじわらのおきよ)が八坂神社で7日7晩丹精を込めて祈願すると満願の夜に枕元に1人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられ、藤原興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか」と尋ねと老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言って消えました。藤原興世が神意を朝廷に奏上し、勅命によって社殿が建立されて神霊を祀りました。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代中期の創建以来、粟田神社が京都の東側の出入口である粟田口に位置する為、東山道・東海道を行き来する人々が旅の安全を願ったり、また道中の無事を感謝したりし、旅立ち守護・旅行安全の神として信仰されるようになりました。
●1001年(長保3年)に粟田祭(あわたまつり)が創始されました。同年の旧暦9月9日の夜、一人の神童が八坂神社に現れて神人に「今日より7日後に祇園社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」と告げました。7日後の9月15日にお告げのとおり瑞光が現れた為、御神幸が行われるようになりました。その瑞光が現れた場所は粟田神社でした。
●1174年(承安4年)頃に源義経(みなもとのよしつね・牛若丸)が陸奥国の平泉に下向した際、出世恵美須神社(しゅっせえびすじんじゃ)に源氏の再興を祈願したと言われています。その後源氏再興の願いが叶ったことから出世恵美須神社と言われるようになりました。なお出世恵美須神社は元々、東山区蹴上の夷谷で祀られていたが、その後粟田神社北側にあった金蔵寺に遷され、明治時代に現在の場所に遷されました。ご神像・恵美須神像は天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)作とも言われ、国内最古の寄木造(よせぎづくり)の恵美須神像とも言われています。
●平安時代から鎌倉時代に粟田神社(粟田口)一帯に刀工が住し、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)・粟田口藤四郎吉光(あわたぐちとうしろうよしみつ)などの名工を輩出しました。鍛冶神社は三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と作金者(かなだくみ)の祖・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀っています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●鎌倉時代に青蓮院(しょうれんいん)が鴨川の氾濫を避ける為に三条白川から現在の場所に移り、その後青蓮院の鎮守社になりました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●室町時代中期に応仁の乱(おうにんのらん)で焼失したと言われています。
●室町時代中期に八坂神社の祇園祭(御霊会)が行われない際、粟田祭が祇園祭としたと言われています。ちなみに1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、祇園祭が33年間中絶し、1500年(明応9年)に規模を縮小して再興されたと言われています。なお粟田神社の剣鉾は祇園祭の山鉾の原形とも言われています。
●1500年(明応9年)に室町幕府が吉田兼倶(よしだかねとも)に命じ、室町幕府10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)の産土神として、八坂神社から新たに勧請して再興したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代前期に奈良・宝山寺を再興した真言宗の僧・宝山湛海律師(ほうざんたんかいりっし)が別当を勤めていました。宝山湛海律師が刻んだ聖天像が残され、聖天社に祀られています。
●1703年(元禄16年)に拝殿(市指定有形文化財)が再建されました。
●1832年(天保3年)に風流灯籠(ふうりゅうどうろう)・粟田大燈呂(あわただいとうろ)が途絶えました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●明治維新後に社名を粟田神社に改め、府社に列せられました。本地仏・薬師如来(やくしにょらい)が青蓮院に移されました。
●2000年(平成12年)に神輿の巡行が復活しました。1959年(昭和34年)に台風で損傷した拝殿の修復費がかさんだ為、1960年(昭和35年)から神輿の巡行が途絶えていました。
●2008年(平成20年)に風流灯籠・粟田大燈呂が復活しました。

【粟田神社ゆかりの清和天皇】

第56代・清和天皇は850年(嘉祥3年)5月10日に第55代・文徳天皇と太政大臣・藤原良房の娘・明子の間に第4皇子として生まれました。3人の異母兄である惟喬親王・惟条親王・惟彦親王を退け、生後8か月で皇太子になり、858年(天安2年)に父・文徳天皇が崩御すると僅か9歳で即位しました。それまでの天皇としての最年少即位でした。幼少であったことから外戚(外祖父)・藤原良房が政治の実権を握り、実質的な摂政になりました。866年(貞観8年)に信頼していた伴善男らによるとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生し、事件が解決していない同年8月に外戚(外祖父)・藤原良房が正式に摂政に任命されました。876年(貞観18年)に第1皇子で、9歳の貞明親王に譲位し、第57代・陽成天皇に即位させ、清和院(平安左京北辺四坊)に移りました。清和天皇は貞観格式をつくり、孫の経基に源氏の姓を与えて清和源氏が起こり、清和天皇は武門の棟梁となる清和源氏の祖とされました。879年(元慶3年)5月に出家して仏門に入り、10月から畿内の諸寺を巡礼し、翌880年(元慶4年)3月に丹波国水尾に入って絶食を伴う苦行を行い、水尾を隠棲の地に定めました。その後左大臣・源融の別邸・棲霞観で病気を発し、藤原基経の粟田山荘(円覚寺)に移り、881年(元慶4年)1月7日は崩御しました。

【粟田神社の歴史 備考】
*参考・・・粟田神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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