関白・藤原道長(ふじわらのみちなが)と嵐山

関白・藤原道長と嵐山

嵐山は古くから紅葉名所とされ、天皇(上皇・法皇)・貴族などが和歌に詠んだり、舟遊びを楽しんだりしました。平安時代(794年~1185年)中期には御堂関白とも言われた藤原道長が舟遊びを催し、平安時代後期の歴史物語「大鏡」に描かれました。

【嵐山の紅葉見ごろ(例年時期)・2024年予測】
嵐山の紅葉見ごろは例年11月中旬頃から11月下旬頃です。ただ紅葉の時期や見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2024年(令和6年)の紅葉見ごろ情報は2024年(令和6年)9月上旬頃から順次情報発信します。
嵐山紅葉見ごろ

【嵐山 歴史・簡単概要】
嵐山は一級河川・桂川(大堰川)に架けられて渡月橋の西、京都市西京区にある標高約382メートルの山です。嵐山は国の史跡・国の名勝に指定されています。また嵐山は「日本さくら名所100選」・「日本の紅葉の名所100選」にも選ばれています。嵐山は平安時代に貴族の別荘地で、古くから歌枕として多くの和歌などに詠まれる景勝地でした。なお嵐山と言う場合、山そのものではなく、桂川(大堰川)両岸の嵐山・嵯峨野を含めたエリアを指し、京都随一の観光地になっています。

【関白・藤原道長(ふじわらのみちなが)】
嵐山は古くから紅葉名所とされ、天皇(上皇・法皇)・貴族などが和歌に詠んだり、舟遊びを楽しんだりしました。鎌倉時代には亀山上皇(第90代・亀山天皇(かめやまてんのう))が満月の晩に舟遊びをしていた際、橋の上の月を眺め、「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから大堰川(おおいがわ・桂川)に架けられた渡月橋(とげつきょう)の名称の由来になりました。た平安時代中期には摂関政治の最盛期を現出させ、御堂関白(みどうかんぱく)とも言われた藤原道長(ふじわらのみちなが)が舟遊びを催し、平安時代後期の歴史物語「大鏡(おおかがみ)」に描かれました。その舟遊びでは藤原公任(ふじわらのきんとう)が嵐山嵯峨野の紅葉を詠んだ和歌「小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」が残され、「三船の才(さんせんのさい)」・「三舟の才(さんしゅうのさい)」の由来にもなりました。ちなみに藤原道長は権力者の側面だけでなく、優れた詩人・歌人という側面も持ち、大堰川(おおいがわ)に浮かべた作文(漢詩)・管絃・和歌の舟にその道の名人を乗せて競わせました。1018年(寛仁2年)に三女・威子を第68代・後一条天皇に入内させ、「一家立三后」と驚嘆させた際、邸宅に公卿を集めて祝宴を開き、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば(この世は 自分の為にあるようなものだ 満月のように何も足りないものはない」が詠んだことがよく知られています。
「大鏡」は第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)が即位した平安時代前期の850年(嘉祥3年)から第68代・後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の平安時代中期の1025年(万寿2年)までの天皇14代・176年間の歴史を藤原北家、藤原道長の栄華を中心に描かれています。「大鏡」は「栄花物語」と同じく、藤原道長の生涯に重点が置かれています。「大鏡」は190歳の大宅世継 (おおやけのよつぎ) と180歳の夏山繁樹(なつやまのしげき)の昔語りに若侍が批判を加え、史実に対する批判的史観を持っています。なお「大鏡」の作者は不詳です。作者は摂関家やその縁戚の人物が有力と言われ、藤原為業・藤原能信・源経信・源俊房・源顕房・源雅定らの名前が挙げられています。「大鏡」は「水鏡」・「増鏡」・「今鏡」とともに四鏡と言われています。

【「大鏡(おおかがみ)」】
一年、入道殿(藤原道長)の大井川(大堰川)に逍遥せさせ給ひしに、
作文の舟・管絃の舟・和歌の舟と分たせ給ひて、
その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言(藤原公任)の参り給へるを、
入道殿、「かの大納言、いづれの舟にか乗らるべき。」とのたまはすれば、
「和歌の舟に乗り侍らむ。」とのたまひて、詠み給へるぞかし、
「小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」
申し受け給へるかひありてあそばしたりな。
御自らものたまふなるは、
「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、
名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。
さても、殿の、『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ、
我ながら心おごりせられし。」とのたまふなる。
一事の優るるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。

●藤原道長は966年(康保3年)に太政大臣・藤原兼家と藤原時姫の間に生まれ、五男または四男と言われています。同母兄弟に道隆・道兼・超子(三条天皇母)・詮子(一条天皇母)らがいます。祖父・藤原師輔は第62代・村上天皇を支えた実力者で、娘・安子が第63代・冷泉天皇、第64代・円融天皇を産み、外戚として権力を強化しました。970年(天禄元年)に太政大臣・藤原実頼が亡くなると父・藤原兼家とその兄・藤原兼通が争い、藤原兼通が関白になると父・藤原兼家が不遇になりました。その後979年(天元元年)に父・藤原兼家が右大臣になって不遇を脱し、その次女・詮子を円融天皇の女御になり、980年(天元3年)に第1皇子・懐仁親王を産みました。藤原道長は980年(天元3年)に従五位下に叙され、その後右兵衛権佐になりました。986年(寛和2年)に花山天皇を出家させる寛和の変により、甥・懐仁親王を第66代・一条天皇に即位させ、父・藤原兼家が摂政に任じられ、988年(永延2年)に参議を経ずに権中納言に任じられました。990年(正暦元年)に父・藤原兼家が亡くなり、いずれも兄で、摂関となった藤原道隆・藤原道兼が伝染病で相次いで亡くなり、その後兄・藤原道隆の嫡男・藤原伊周との政争に勝って実権を握りました。999年(長保元年)に長女・彰子を一条天皇に入内させ、1012年(長和元年)に次女・妍子を第67代・三条天皇に入内させ、三条天皇と対立すると退位に追い込み、1016年(長和5年)に長女・彰子の産んだ第68代・後一条天皇を即位させ、1017年(寛仁元年)に嫡子・藤原頼通に摂政を譲りました。1018年(寛仁2年)に三女・威子を後一条天皇に入内させ、「一家立三后(一家三后)」と驚かせました。1019年(寛仁3年)に剃髪して出家し、その後奈良・東大寺で受戒しました。晩年に法成寺創建に心血を注ぎました。なお藤原道長は1028年(万寿4年)1月3日に亡くなりました。

【関白・藤原道長と嵐山】
*京都には多くの紅葉名所があり、その紅葉見ごろを下記リンクから確認できます。
京都紅葉見ごろ2024

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