祇園甲部・宮川町と京都ゑびす神社(恵美須神社)
祇園甲部・宮川町と京都ゑびす神社(恵美須神社)
祇園甲部・宮川町の舞妓は例年1月に京都ゑびす神社で行われている十日ゑびす大祭の際、東映の女優とともに商売繁昌・家運隆昌を祈願した福笹を参拝者に授与しています。福笹は京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものと言われています。
【京都ゑびす神社(恵美須神社)十日ゑびす大祭 日程時間(要確認)】
京都ゑびす神社十日ゑびす大祭は例年1月8日~12日に行われます。京都ゑびす神社では1月9日9:00から1月11日24:00まで夜通しで開門されます。
京都ゑびす神社(恵美須神社)十日ゑびす大祭
【十日ゑびす大祭 歴史・簡単概要】
十日ゑびす大祭では例年1月8日から12日までの5日間、商売繁昌・家運隆昌を祈願した吉兆笹が授与されます。また大宝・福俵・福箕・福熊手・福鯛・宝船・宝来などの縁起物も授与されます。また京都ゑびす神社では例年10月20日に二十日ゑびす大祭、前日19日に宵戎も行われています。二十日ゑびす大祭・宵戎では縁起物の福笹・次年度の暦・来年度の干支絵馬などが授与されます。
【祇園甲部(ぎおんこうぶ)・宮川町(みやがわちょう)】
京都ゑびす神社に隣接する祇園甲部・宮川町の舞妓は例年1月に京都ゑびす神社で行われている十日ゑびす大祭(とおかえびすたいさい)の際、東映の女優とともに商売繁昌(しょうばいはんじょう)・家運隆昌(かうんりゅうしょう)を祈願した福笹(ふくざさ・吉兆笹(きっちょうざさ))を参拝者に授与しています。(舞妓は例年1月11日の残り福祭で午後から授与することが多い。)福笹(吉兆笹)は京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものと言われています。笹は松竹梅に数えられる竹の葉で、「節目正しく真直に伸び」・「弾力があり折れない」・「葉が落ちず常に青々と繁る」という特徴から商売繁盛・家運隆昌の象徴になったそうです。ちなみに花街(祇園甲部・宮川町・祇園東・先斗町・上七軒)の舞妓・芸妓は寺院・神社で行われる行事(仏事・神事・イベント)に奉仕しています。京都三大祭りに数えられる祇園祭花傘巡行や節分(八坂神社・北野天満宮など)などに奉仕しています。また選挙の啓発や募金などでも奉仕しています。なお東映の女優は松竹梅と紅白に飾った籠に乗りこみ、太秦の東映映画村から京都ゑびす神社に参拝します。
●祇園甲部は祇園東(ぎおんひがし)とともに江戸時代(1603年~1868年)初期に八坂神社の門前で営業していた水茶屋とそこで働く茶点て女が起源と言われています。京都所司代(きょうとしょしだい)・板倉重宗(いたくらしげむね)により、茶点て女を置くことが許可され、祇園社(ぎおんしゃ)と言われた八坂神社門前の茶屋町を「祇園町」と言うようになりました。寛永年間(1624年~1643年)から茶屋町として栄えてきたと言われています。寛文年間(1661年~1673年)に四条河原町に芝居小屋が建つと四条通と大和大路通にも茶屋が置かれ、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町が祇園外六町と称し、1732年(享保17年)に正式に営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町にも茶屋が置かれ、祇園内六町と称しました。江戸時代末期にお茶屋が500軒、芸妓・舞妓などが1,000人以上いたと言われています。1872年(明治5年)にお茶屋一力亭(いちりきてい)9代目・杉浦治郎右衛門や初代京都府知事・長谷信篤などにより、祇園甲部歌舞会が設立され、また同1872年(明治5年)に八坂女紅場(やさかにょこうば)も創設されました。更に同1872年(明治5年)に京都で初めて開催された第1回京都博覧会の余興として、先斗町(ぽんとちょう)の鴨川をどりとともに都をどりが上演されました。都をどりは京都府知事・槙村正直(まきむらまさなお)が作詞、当時新進であった井上流家元・井上八千代(いのうえやちよ)が伊勢古市の亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を参考に振付を担当しました。1881年(明治14年)に京都府知事により、祇園町が祇園甲部と祇園東の2つに区分されました。1951年(昭和26年)に学校法人になり、舞妓・芸妓を養成する祇園女子技芸学校(ぎおんじょしぎげいがっこう)を運営しています。祇園甲部の舞踊は京舞井上流、春に都をどり、秋に温習会を開催しています。ちなみに祇園甲部は紋章が八個のつなぎ団子に「甲」の字です。なお祇園甲部は東側が東大路通(ひがしおおじどおり)、西側がが鴨川(かもがわ)、北側が新橋通(しんばしどおり)、南側が建仁寺(けんにんじ)に囲まれたエリアで、北側の祇園白川地区が重要伝統的建造物群保存地区になっています。
●宮川町は京都で人気になった出雲阿国(いずものおくに)の歌舞伎踊り(かぶきおどり)の頃、江戸時代(1603年~1868年)初期の慶長年間(1596年~1614年)に始まったと言われています。歌舞伎踊りは四条河原で発祥し、宮川町は歌舞伎発祥の地とも言われています。宮川町では当初、遊女が接待していたとも、また若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び、少年が接待していたとも言われています。その後歌舞伎などの芸能と関りながら茶屋街として発展し、江戸時代中期の宝暦年間(1751年~1763年)に正式に認可されました。ただ江戸時代の三大改革で取締りを受け、若衆歌舞伎などが打撃を受けたとも言われています。宮川町には現在も遊廓時代の建物が残されています。1935年(昭和10年)に京都大水害で浸水被害を受けました。1968年(昭和43年)に舞妓・芸妓を養成する東山女子技芸学校(ひがしやまじょしぎげいがっこう)が創立され、翌1969年(昭和44年)に東山女子学園が設立されました。1999年(平成11年)に宮川町の一部が京都市の祇園町南歴史的景観保全修景地区に指定されました。宮川町の舞踊は尾上流、春に京おどり、秋にみずゑ会を開催しています。ちなみに宮川町は紋章が三つ輪です。なお宮川町は鴨川左岸で、宮川筋二丁目から六丁目の辺りです。宮川町の地名は京都三大祭りに数えられる祇園祭の際、四条大橋下流の鴨川で神輿洗式が行われ、宮川と言われたことに由来しています。
●東映太秦映画村は1975年(昭和50年)11月にオープンした映画のテーマパークです。東映太秦映画村では時代劇の殺陣ショー・俳優のトークショー・撮影会・握手会などが行われます。
【祇園甲部・宮川町と京都ゑびす神社(恵美須神社) 備考】
京都十日戎・十日えびす













